名古屋シンフォニア管弦楽団
Nagoya Sinfonia Orchestra
指揮 稲垣宏樹
1963年生まれ。京都市立芸術大学指揮科に学ぶ。 現代の前衛、実験音楽の紹介を目的に組織されたContemporaly Art Ensemble of Kyoto及び最現代の音楽専門の演奏団体である京都ウェスト・エンド・バンドの指揮者をつとめており、現代音楽を中心にユニークな活動をしている。 これまでにケヴィン・ヴォランス、スティーヴ・マートランド等の新作の初演を行い、内外から注目を集めている他、京都府主催による芸術小劇場での度々の公演(Vol.64「英国ポストパンク世代の作曲家達」、Vol.190 "British New Wave" 等)東京に於てのアンセイルの「バレエ・メカニック」の公演、京都国際音楽祭に於ての現代音楽の指揮、京都国際現代音楽フォーラムのコンサート部門に於ての指揮、京都市立芸術大学に於ての現代音楽シリーズの公演、神戸に於てのワイルの「三文オペラ」の公演、京都に於てのストラビンスキーの「兵士の物語」の公演等いずれも好評を博す。 指揮を秋山和慶、作曲・理論を広瀬量平、ピアノを田隅靖子、ホルンを故真下惇至、室内楽を荒憲一の諸氏に師事。
ヴァイオリン 上田 京子
6歳よりヴァイオリンを始める。 1979年 東京芸術大学音楽学部入学。 (故)多 久興、田中千香士、海野義雄、山岡耕筰、久保陽子の諸氏に師事。 1982年 芸大学内モーニング・コンサートにて芸大オーケストラとコンチェルトを協演。同年パガニーニ国際ヴァイオリンコンクールで特別賞受賞。 1983年 同大学卒業。木曽福島国際音楽祭出演。 1985年 第7回 日本演奏連盟推薦ジョイントコンサート出演。 東京、名古屋にてリサイタルを行なう。現在東京芸術大学管弦楽研究部及びアンサンブル・of・トウキョウのメンバーとして演奏活動を行なっている。
曲目解説は、当時のプログラム掲載コラムをもとに再構成しています。
本文中には、執筆当時の見解や表現、現在では異なる見解がある事項も含まれます。
ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
プログラムノート 高萩 泉
古い話で恐縮だが、昔、名古屋フィルハーモニー交響楽団のプログラムに「間奏曲」というコラムがあったのを御存知だろうか。
なにしろ今から15年も前のことなので、幾分あやふやなところもあるのだが、たしか中曽根さんという方が、定期演奏会ごとに書いておられたと記憶している。
なんでこんな古い話を持ち出したかというと、このコラムにベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲についての、おもしろいエピソードが載っていた覚えがあるからである。
確か、こんな話だった。
この曲の冒頭は、とても印象的なのだが、ティンパニが小さな音で「トン・トン・トン・トン」と四つの音を叩いて始まる。
彼がどうしてこれを思いついたかというと、当時ベートーヴェンのアパートの前の部屋に住んでいた男が、いつも飲み屋経由で午前様で帰宅しており、御近所の目を覚まさないように(奥さんの怒りを買わないように)、自宅の扉をそっと叩くのが習慣になっていた。
夜遅くまで仕事をしていたベートーヴェンは、いつもこれを聞き、新作のヒントにしたというのである。
もっとも、耳の不自由だったベートーヴェンに聞こえる音だったのであるから、その男によっぽど大きな音をたてていたに違いない。
本当だとしたら、これほど近所迷惑な話はない。
ベートーヴェンは、その57年の生涯の内で、ピアノ協奏曲は五曲もあるのに、ヴァイオリンのための協奏曲はこの一曲しか残っていない。
この曲以外にも二曲ほど書こうとしたらしい形跡はあるのだが、いずれも完成には至っていない。
天才と言われるベートーヴェンといえども、やはり得意不得手があるのではないかと思うと、我々凡人も弱点を見つけたような気がして、何となく嬉しくなってしまう。
(「それがどうした」と言われればそれまでであるが。)
そもそも、この曲の書かれた背景には、フランツ・クレメント(1780-1842)という、当時ウィーンで大活躍していたヴァイオリニストとの出会いがあった。
ベートーヴェンは1806年暮れ、彼の演奏会のために新作のヴァイオリン協奏曲を依頼されたのである。
この曲は短期間で仕上げられた。ベートーヴェンとしては異例の早さである。
もっとも、完成したのはクレメントの演奏会の直前で、練習の時にもインクの乾いていない楽譜が次々と届けられるような有様であったという。
ソリストも指揮者もオーケストラも、さぞかし苦労したことであろう。
聴衆の反応はどうであったか。
当時の有名な批評家メーザーの記述が今日に伝えられている。ちょっと長いが、引用してみる。
「ベートーヴェンの曲について識者の評は一致している。即ち、多くの美しさは認められるものの、前後のつながりが時によるとまったく断ち切られているように見えるし、また二、三の平凡な箇所を、はてしなく繰り返すことが、すぐに飽きさせるもとになるというのである。」
ほめているのか、けなしているのか分からないような評論だが、当時の聴衆にはそのまま受け入れられなかったのは確かなようである。
実際、ベートーヴェンの死後、しばらくこの曲は忘れられ、一般に知られるようになったのは、1844年にメンデルスゾーンが、大ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムと共に復活演奏してからのことである。
ブラームス 交響曲 第4番 ホ短調 作品98
19世紀のロシアのピアニスト、ルービンシュタインがこんなことを言っている。
「私の印象では、この人はサロンでは優雅さに欠けているし、ステージでは激しさが足りない。また、田舎では素朴になりきれないし、逆に都会的でもない。こういった性格の人間を、私だったら信用できない。」
ブラームスというのは、こんな男である。
「だから」と言ってしまってよいものかどうかは分からないが、ブラームスの音楽には、新しいところと古めかしい要素が混在している。
例えば、第二楽章冒頭のホルンと木管楽器のテーマは、ブラームスの時代より100年以上前に教会音楽に使われていたフリギア旋法という特殊な音階を用いて書かれているし、第四楽章では、楽章全体がシャコンヌと呼ばれるバロック時代の変奏曲のスタイルで書かれている。
場所によっては非常にロマンティックに聴こえるのに、どこか古ぼけた感じがするとすれば、このせいである。
実際のところ、ブラームスと同時代の作曲家、例えばヴァーグナーの作品とくらべると、彼の音楽は、良く言えば内容豊富、悪く言えば演奏効果の上がりにくい、冴えない曲、といったことになろうか。
明らかにこの曲を受け入れなかった作曲家もいた。マーラーなどはその代表的な例である。
彼の評によれば、ブラームスの第四交響曲は「かすかな骨の残骸」であるし、リヒャルト・シュトラウスにいたっては、第一楽章など「ぶつ切りの音符の羅列」であると弟子たちに言っていたらしい。
(シュトラウスなら、確かにブラームスよりうまく書けるには違いない。)
この曲を受け入れるか、受け入れないかは、聴き手の問題であるが。
それはさておき、この第四交響曲は1885年12月に初演されるや否や、圧倒的な成功を収め、今日演奏されるオーケストラ作品の中でも最も重要なレパートリーの一つになっていることは、これまた御存知の通りである。
1897年、彼はウィーンで自分の作品の演奏会に出席した。ウィーン・フィルハーモニーが第四交響曲を演奏した。そして、これがブラームスが公衆の面前に姿を現した最後となった。
一か月後、彼は肝臓がんで世を去った。
(酒には気を付けようっと。)
死の床にあったブラームスは、「自分の作品の中でどの曲が一番好きか」という問いに対して、こう答えたという。
「どの曲が一番好きかって? そりゃ、一番、最後に聴いた曲さ。」
ちょっといい話ではないか。