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第26回定期演奏会

1995年2月5日

愛知県芸術劇場コンサートホール

愛知県 名古屋市東区

ベートーヴェン 交響曲第5番
バルトーク ヴィオラ協奏曲
ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲 第3番
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ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲 第3番

ベートーヴェンは彼の完成した唯一の歌劇「フィデリオ」のために4種類の序曲を作曲しました。第1版(1805年初演)が不評に終わり、第2版(1806年初演)も意にそわなかったため、さらに改稿した第3版(1814年初演)が作られました。第1版の序曲は「レオノーレ」第2番作品72a、第2版の序曲は「レオノーレ」第3番作品72bで、他に第3版のために「フィデリオ」序曲とは別に作曲されたと思われる序曲ハ長調作品138があり、「レオノーレ」第1番と呼んでいます。 現在では「レオノーレ」第3番は歌劇の第2幕の前奏曲のかたちで挿入するのが普及していますが、この習慣はマーラーがウィーン時代にはじめたのがきっかけでした。序曲はソナタ形式で書かれた、長大で堂々たるもので歌劇の劇的な内容を暗示した構成の非常にすぐれた作品となっています。またこの曲を特に有名にしているのは後半になって出てくる大臣の到着を告げる部分からフィナーレを暗示するクライマックスの部分で、これは舞台裏で演奏されるトランペットのファンファーレが2度繰り返されるのがきっかけとなっています。

バルトーク ヴィオラ協奏曲

ベラ・バルトークはコダーイと共に青年時代ハンガリーの農村を歩き、農民の間で歌われている民謡を直接採集しました。さらにバルカン・中近東に足を伸ばしてその源流を探り、従来ハンガリー民謡と考えられていたジプシー音楽に代って、マジャール人の音楽を発掘しました。こうして集められた民謡の数は全部で5千曲以上にも上っており、バルトークは、これらを単に民謡そのものとして発表しただけでなく自己の作風の基礎にすえたのです。しかし1921年(40才)に作曲したヴァイオリン・ソナタ第一番からは、それを拡大して抽象的な表現へと移ってゆきました。 

これらの民謡が採集されたルーマニアのトランシルヴァニア山地はバルトークが民謡採集に歩いた頃はハンガリー領だったのですが、第一次大戦の結果ルーマニアに帰属した地方なのです。戦争の拡大によって故郷に残っている親族友人に会いに行くことさえ時には不許可になったり、時には甚だしい煩雑なトラブルを経なければならなかったりしました。しかも戦争により国土は徹底して荒廃消耗してゆきました。彼は愛する国土、自由、正義などが犯され略奪されてゆくことも見ながら持前の純粋で潔癖な性格ゆえに人一倍苦痛に感じ辛うじて耐えてゆきました。やがて、それから十数年後にナチスの暴逆を眼のあたりに見るに至って再び帰国することのない亡命をなしとげたのです。アメリカへ渡った彼は、いくつかの大作を発表しますが、ヨーロッパ時代から彼の身体を蝕み始めていた白血病が彼を次第に衰弱させてゆき1945年孤独と貧困のうちに亡くなりました。ヴィオラ協奏曲は、彼の死の年1945年に作曲された最後の作品で、ヴィオラ奏者ウィリアム・プリムローズの依頼により書かれました。しかし作曲途中でバルトークが白血病で亡くなったため作品は未完に終わり、彼の死後、弟子のティボール・シェルリーが、スケッチをもとにオーケストレーションなどを施し完成させました。 

残された楽譜は、訂正箇所が完全に消されていなかったり楽器の指定が欠けているなどバラバラの状態で、シェルリーは正しい音の判読だけでも約4ヵ月も費やしたりと、かなり苦労したようです。また、ヴィオラソロパートはほぼプリムローズ編となっています。バルトークは作品を通じて戦争への憎しみを許し戦争を必要とした世界への反抗を表明し、それが彼の主張しようとしている深奥の理念、思想に大きく影響しているように思われてなりません。

ベートーヴェン 交響曲第5番

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは今から二百年ほど前ドイツのボンという町の貧しい家に生まれました。祖父や父親が音楽家だったので、小さいときから、音楽にしたしむようになりました。またブロイニングやワルトシュタインのような、親切な友人に恵まれてベートーヴェンは貧困や病気と闘いながらオーストリアの都ウィーンで音楽の勉強を続けることができました。彼は小さい時からくらしの貧しさの為に無理をしたせいか、ずっと内臓の病気をわずらっていて、そのうえ30才を少し過ぎた頃から作曲家にとって致命的ともいえる耳の病気が彼を襲い、次第に難聴に苦しむようになりました。一時は絶望したベートーヴェンも、ついに踏みとどまり、あえて苦難の道を選ぶことによって運命の試練を乗りこえていったのです。こうして交響曲第5番が生まれました。 

5年ものあいだ、何度もスケッチを重ねながら完成させた労作で一つの主題、一つの楽句にどんなに多くの推敲が重ねられたことか知れません。曲は4つの楽章から成りますが第3楽章と第4楽章は切れ目なく続けて演奏されます。

第1楽章アレグロ・コン・ブリオ ハ短調2/4拍子は厳しい凝集の美に貫かれていて、それはソナタ形式という古典主義の特徴的な形式で極限にまで高められています。

第2楽章アンダンテ・コン・モト 変イ長調3/8拍子は、ゆったりした変奏曲です。

第3楽章アレグロ ハ短調3/4拍子のスケルツォでは低音の呟きがフェルマータに達すると、再び「運命の主題」が鳴り響きます。そして活発なフガートの後、切れ目なく

第4楽章アレグロ ハ長調4/4拍子へ力強く移行してゆきます。ここでは理想に燃えるはげしい精神の高揚が展開され肯定的な結束により全曲を閉じます。

ベートーヴェンは、音楽の天才であったから偉いというだけではありません。あらゆる苦しみにうち勝って生き抜いたベートーヴェンの、強い魂の力が、その音楽にあらわれていて、それで私たちの心を打つのです。

世の中の為につくし、人類の為に捧げた偉業は、いつまでも記念されるに違いありませんし、すぐれた音楽に親しむことによって心に強い勇気と明るい希望を私たちに与え続けてくれることを願ってやみません。

迷惑男 バルトーク 高荻 泉

バルトークが今世紀で最も偉大な作曲家の一人だったことは疑いない。

「バルトークはまれなほど親しみにくい人間だった。」と、コリン・ウィルソンは言っている。彼の「お高く止まった」「かんしゃく持ちの性格」が人を遠ざけていたというのだ。

弟子のアガサ・ファセットによれば、アメリカ亡命後のバルトークの困窮した生活を見かねて指揮者のフリッツ・ライナーがコンサートを計画した。1943年1月のことである。ライナーの指揮、ニューヨークフィルと作曲者自身のピアノで二台のピアノと管弦楽のための協奏曲をやろうというのである。リハーサルは完璧である。ところが、いざ本番になるとバルトークはオーケストラや指揮をそっちのけにして、勝手に弾きはじめてしまった。ライナーがトサカにきて、後でバルトークにくってかかったらバルトークは言ったものだ。「ティンパニが間違ったのが悪い。」

大作曲家にしてはセコイ言い訳である。

彼の自己中心的な部分は実は若い頃からあったようだ。

1905年、彼が24歳の夏のことである。音楽コンクールに参加するため彼はパリを訪れていた。ピアノ部門では、めでたく第2位に入賞(ちなみにこの時の第1位はあのバックハウスだった)したバルトーク、しばらくパリで遊んでいたらしい。ルーブル美術館で所蔵品に感激したと手紙に書いている。しかし、パリの夜の歓楽街はあまりお気に召さなかったようだ。だったら行かなきゃいいのに。

故郷ハンガリーの母親宛の手紙に、彼はこんなことを書いている。 「男と女は、肉体的にもひどく違うので、いずれにしろ女の方に高度の純潔を要求するのはそれほど悪いことではないでしょう。」それならば、男のほうはどれだけ遊んでもいいかってか。

バルトーク自身の結婚生活も謎めいた部分が多い。上述したように、バルトークは女性に対して結構うるさいのだが、本人が節制をしているというにはちと遠い。彼の噂の相手は大抵ピアノのレッスンの弟子だったり、音楽院の女子学生だったりした。

グリフィスによれば、「バルトークは若い女子学生に関する限り『カリスマ』を持って」いた。実に羨ましい。(一方で手紙に「精神的孤独は僕の宿命」とか「理想の伴侶を求めても無駄」などといってカッコつけてる)

そんな中、1909年、28歳のベラ・バルトークは親しい人にも知らせないまま教え子のマルタと結婚した。マルタはこの時16歳である。

ところがである、この頃彼は女流バイオリニストのシュテフィ・ゲイエルにバイオリン協奏曲第1番を熱き想いとともに捧げている。先のグリフィスの著書からも、どうやらバルトークが二股をかけていたのは間違いなさそうだ。

なぜ、マルタのほうを選んだのか。私の知ったこっちゃないが、この結婚、1923年には破局を迎えることになる。ただ、1923年5月の心理学者宛の書簡には、家庭内の動揺を示すものはない。

マルタと別れたベラ・バルトークは、既に43歳になっていた。が、再婚相手のディッタ・パーストリは、やはり音楽院の学生で(またしても)20歳(!)である。下世話な話をすれば、バルトークは年下好みのロリコンだったということになるが…………。もっとも、コリン・ウィルソンに言わせると「同性愛に陥らなかっただけ、彼は幸運だった。」ということになる。

しかし、彼は生涯を通じてディッタとは仲良くやったらしいから、めでたしめでたしといったところだろう。

さて、ヴィオラ協奏曲の話をしよう。

1945年、バルトークが白血病で死んだ時、未完成のままで遺された曲が2曲あった。第3ピアノ協奏曲と、ヴィオラ協奏曲である。ピアノ協奏曲については、十数小節をオーケストレーションするだけでよかったのだが、ヴィオラ協奏曲については大きな問題があった。

実はバルトーク、死の直前に依頼者のプリムローズに宛てた手紙で、ずいぶんと調子のいいことを言っている。

「スケッチはほとんど完成している。後は、スコアを書くという技術的な問題だけで、五・六週間で仕上がるだろう。」

遺稿を整理した弟子のシェルイは、スケッチを見て呆然としたに違いない。シェルイのメモを引用してみよう。

「バルトークにとっての『技術的な問題』とは、恐るべき忍耐と、骨の折れる労働を要求するものであった。まず、バルトークのスケッチは、持ち合わせの製本されていない五線紙に書かれていた。その五線紙には、既に別の曲のスケッチがなされていたものもあった。もちろん、ページには番号も振られておらず、楽章も指定されていなかった。」

きっと、曲はバルトークの頭の中だけで完成していたのだろう。少しは遺された者の迷惑も考えたらよかろうに。

今年は、そのバルトークが亡くなって丁度五十年である。

チラシ表
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