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第28回定期演奏会

1996年1月28日

愛知県芸術劇場コンサートホール

愛知県 名古屋市東区

シベリウス 交響曲第2番 
ディッタースドルフ ハープ協奏曲
シベリウス 「カレリア」組曲

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シベリウス 「カレリア」組曲

フィンランドを代表する作曲家シベリウスは、7つの交響曲や「フィンランディア」を始めとする数々の交響詩の作者として知られています。直接民謡の旋律を用いることはありませんでしたが、後期ロマン派、およびロシア音楽の影響の下にこれらの諸作品をはっきりと性格づけているのは民族的な性格であり、そこでは、これらの曲を生む背景となった厳しい自然や深い森と湖の神秘などを感じずにはいません。彼は、ピアノ小品や歌曲の分野でも美しい抒情的な作品を残してはいますが、彼の曲は特に管弦楽という表現手段を用いる時、たいへん生き生きと本来の持ち味を発揮しているように思われます。自由な幻想、深い神秘感や歴史的奥行きなど、やはり管弦楽で存分に発揮されているように思われます。 シベリウスという人は、極度のあがり性のためヴァイオリニストをあきらめたと言われるほど内面的な性格で、そのためか、派手で大仰な表現を嫌い、その当時いまだに大きな影響力を持っていたワーグナーの作品に共感を示しませんでした。ですから彼は、オペラの分野では、重要な作品は残しませんでしたし、バレエ作品も一作も残しませんでした。しかしその代わりに劇のための音楽は、たくさん書き残しており、たいていは、その劇の上演後、組曲として編さんされ、それが成功して今日に残っているケースが多いと言えます。おそらく元来北欧というところは演劇がさかんで、そのための付随音楽の注文もかなりあったのでしょう。1893年に作曲された「カレリア」は、カレリアの州都ヴィボルグで上演する野外劇のために作曲された全9曲からなる劇付随音楽ですが、その後すぐに、序曲「カレリア」作品10と3曲からなる組曲「カレリア」作品11に改編され、現在では、明るく愉快な行進曲が含まれている曲として知られた作品です。

ディッタースドルフ ハープ協奏曲

ディッタースドルフは、ウィーン古典派の作曲家で、ヴァイオリニストとしても各地で活躍した人物でした。18世紀の中頃に起こったドイツの喜歌劇“ジングシュピール”で成功をおさめ、28曲もの歌劇を残しました。また交響曲・協奏曲、室内楽曲、オラトリオなどの広いジャンルでも作品があり、交響曲は、全135曲にも及んでいますが、現在ほとんど演奏される機会に恵まれていません。おそらく音楽の専門家の中でも彼の作品の全貌を知る人は少ないと思われます。ハープ協奏曲イ長調は、1779年に作曲されたチェンバロ協奏曲イ長調の編曲版となっており、数多いとは言えないハープとオーケストラの為の協奏作品としてハーピストの重要なレパートリーの1つとして知られています。

シベリウス 交響曲第2番

シベリウスは、生涯2度にわたるベルリンとウィーンへの留学で、ブルックナーなどの音楽に接し少なからぬ影響を受けたようですが、当時の彼に最も大きな影響を与えたのは、同郷の作曲家で指揮者だったロベルト・カヤヌスでしょう。シベリウスは、ベルリンでカヤヌスの交響詩「アイノ」を聞き祖国の文化の偉大さに気づいたといわれています。以後彼は民族音楽からの直接の借用は、避けようと目ざしましたが作品の中に民族的雰囲気を宿らせるような、ある種の民族的様式面は出現させたいと思っていたのです。民族叙事詩「カレワラ」の集大成により民族の原点を知らされ自覚と誇りに目ざめたフィンランドには民族ロマン主義、民族独立の潮流が高まってきました。その大きな波の上にシベリウスの音楽は形成されていきました。また彼には、常に自然の中へ溶け込める類まれな才能がありました。小鳥のさえずりは彼にきき耳を立てさせ、牛追いの少女の牛を呼ぶ声は決して離れることなく彼の心に残ったのです。彼の音楽の背後にフィンランドの深い神秘をひめた自然やその厳しさにも拘らず敢然とそれに立ち向かって生きる民族の底力を感じるのはその為なのです。シベリウスの作曲上の偉業は、すぐれた交響曲を7曲も創り上げたことに代表されると思われます。その7つの交響曲は1作ごとに高め民族的ロマン主義の情熱につけ加え明快で集約された古典性も現われています。偉大への道、それは厳しい自己批判にあると確信した彼の精神が1作1作を高めていったのです。シベリウスは、ごくありふれた才能であっても自分自身に常に批判を求めることによって偉大な芸術家になれると信じていたのです。ですから彼に時おり「スランプ」がおそいましたが、それでも彼には、まだ何か偉業を達成できるという強い確信もあったのです。さて、交響曲第2番は、1901年イタリアのラパロ市のそばの小さな山荘で作曲し始められ、1902年の始めには完成し、同年ヘルシンキでシベリウスの指揮で初演されました。第1楽章アレグレット6/4拍子は、ウィーン古典派風の和声性への試みが現われ、田園的遊び、情熱、自然の落ち着き、英雄的戦闘精神が表現されているといわれています。第2楽章アンダンテ・マ・ルパートニ短調4/4拍子は、山荘での経験がよく反映されているといわれています。自分が死を客として迎え入れるドン・ファンだと想像した象徴的標題音楽性の強い楽章です。死がひっそりとした足どりでドン・ファンの客として到着し、死の陰うつな歌が、キリストを主題とする最後の審判のコラールに対抗する力となり、キリストの主題が、ある時は勝利の歓喜に満ちて、ある時は希望の光を失って響き、結局恐ろしい悪魔にあざけるトリルでこの楽章を閉じるのです。第3楽章ヴィヴァーチッシモ6/8拍子は、闘争への準備をする心構えが表現されていて、つづくフィナーレへの重要な橋渡しの役割りも兼ねています。第4楽章フィナーレ・アレグロ・モデラートは、前楽章を受けて、荒々しく反抗する大きな、うねりの中から力強い勝利の聖歌が生まれ、喜びを満ちた精神的高揚がこの楽章を強く印象づけます。

沈黙のシベリウス 高荻 泉

多くの評論家や音楽家がシベリウスとその音楽とその故国フィンランドの風土とを結び付けて言及していることにはやはり注目すべきである(と言うべきだろうな)。 亡くなった指揮者の渡辺暁雄が興味深いことを言っている。

 「シベリウスの音楽の特徴はフィンランド語の特性と切り離せないものがあります。フィンランド語という言葉は非常に一語一語が長い言葉なんです。ローマ字にしますと十いくつのローマ字で一語を書くわけなんです。ですから、話すテンポも遅うございます。 ……気候は三分の一は北極圏に入っているわけなんです。強い嵐とか、厳しい雷とかがほとんどなくて、割合いつも冬はシーンと静まりかえり、零下数十度の寒さなんですね。そうした風土も言葉に影響を与えているのでしょう。」

聞くだけで寒くなる話だ、続けて渡辺はこういう。

 「それが、音楽に出ています。つまり、一つの随分長い旋律をたくさん扱うとか、一つのモチーフの繰り返しが、とても多いのですね。」

寡聞にして、筆者はフィンランド語を知らぬが、さすがにフィンランドの血を引く渡辺の言葉だけに何となく説得力があるような気がしてきた(でしょう)。 これを、コリン・ウィルソンが、もっとこむづかしい言葉で言うとこうなる。

 「シベリウスの場合は、音楽が自然の真髄――つまり、広大で無限で自由で単なる人間的水準から見れば険悪そうな、しかしあまり非人格的なため真に険悪ではありえない自然――を捉えているように感じられる。」

おわかりですな。引用している筆者にはさっぱり分からんが、うーむ奥が深い。

さて、このシベリウス、その生涯に大きな謎がある。最後の交響曲第7番は1924年に書かれたが、その後彼の作曲の筆はさっぱり動かなくなる。最後の小品が発表されたのは1929年。そして、彼が死んだのは1957年だ。一体どうしたというのだろう。書きたくなくなったとでもいうのか。いや、そんなことはなさそうである。1970年版のグローブの音楽辞典にはこうある。

 「この作曲者の最後の交響曲8番は30年代の数年間は、期待されており、ロンドンのロイヤルフィルハーモニック協会により演奏が予告されているが実現しないままになっている。」

だったら、少なくとも書こうとしたはずである。

通俗的な話だが、生活が恵まれすぎて創作意欲が減退したのだという説がある。フィンランドがロシアに併合されていた19世紀末に一連の愛国的な作品を発表していたシベリウスは言わばフィンランドの国家的な英雄であった。(交響詩「フィンランディア」なんぞ、それこそ血わき肉踊るといった曲ではないか)このため、1897年、まだ彼が32歳の時から政府は終身年金を出すようになる。2000マルッカである。決して安い金額ではなかったという。1915年には国をあげて、シベリウスの50歳の誕生日を祝い、年金も5万マルッカに増える。さらに、25年(60歳)には(7番交響曲の作曲された翌年である)、祝い金27万マルッカ(国民がこぞって出したんだそうな)と年金10万マルッカに増額される。 もういいやね。十分に仕事したし、金も政府がくれるし、天才であろうが、なんだろうが、8番交響曲の注文キャラにしたって、何にも困らん、と思ったところで、何のお不思議もあるまい。武川寛海はいう。

「もしも生活に苦しんでいたら、交響曲第8番はもちろん発表されていたであろう。たとえ、失敗であったとしても……」

もちろん、好意的に見れば、彼の作曲技法や作品の充実ぶりに比べて、彼自身が長生きしすぎたのだと考えられなくもない。彼の交響曲など、従来の交響曲の概念を越えて発展していったことは、多くの学者が指摘する。実際、第7交響曲はもはや、楽章という概念まで解体されてしまっている。行きつくところまで、行きついてしまったら、もう次の作品といったって書きようがない。


東海大学病院の五島雄一郎によれば、シベリウスはうつ病であった。

 「北欧の芸術家には、精神病にかかるものが多い……一年の半分は冷たく暗い冬で、精神はいやが上にも痛めつけられる。デリケートな神経の持ち主である芸術家達は、創造の苦しみと孤独な戦いと暗い自然の重圧の中に酷使されている。」

やれやれ、また厳しい自然の話だ。シベリウス自身よく「大曲の構想は必ず冬やってくる」と言っていたらしい。そう言われりゃ誰だって暗くなるわな。ノルウェーの画家ムンクもそうだったらしいし、天才がウツで書けないなら、オレも原稿書かないといったみたいのものだ。

ともあれ、シベリウスは30年近く、沈黙したまま91歳まで長生きした。おかげで、100年近く前(1901年)に書かれた交響曲第2番を演奏するにも、残された我々は著作権料を払わなければならぬのだが。

チラシ表
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