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第30回定期演奏会

1997年2月2日

愛知県芸術劇場コンサートホール

愛知県 名古屋市東区

ブルックナー 交響曲第7番(ノヴァーク版)
ドヴォルザーク チェロ協奏曲

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ドヴォルザーク チェロ協奏曲

アントニン・ドヴォルザーク(1841〜1904)

チェロ協奏曲ロ短調作品104

ドヴォルザークは、1841年、当時はミュールハウゼンと呼ばれた小さな村に生まれました。彼は、父親の肉屋商の後をつぐためにズロニツェやチェスカ=カメニツェという町へ出てドイツ語の勉強(そのころチェコはオーストリアの支配下にあり、役人はもとより商人になるにもドイツ語を習得しなければ、その資格が与えられませんでした。)を始めますが、ドイツ語の先生がいずれも音楽家で作曲やオルガンの手ほどきを受けることになり、彼の天性の才能が芽生え始めるきっかけとなりました。初め、父親に音楽家になることを反対されましたが、先生たちのすすめも手伝って、理解ある父親は決心を変えドヴォルザークに本格的な音楽の勉強をさせる為にプラハに出すことに決めました。それからも、順調に才能を伸ばし、ある時、彼の交響曲第3番がブラームスの目にとまり、楽壇に大きく紹介されることになりました。ブラームスは、ドヴォルザークの魅力的な旋律をつくりだせる才能に感嘆しただけでなく、実は、たいへん嫉妬し、ブラームスもドヴォルザークも音楽的に相互にたいへん意識しあいました。1892年、すでに母校のプラハ音楽院で教授をしていた51才の年にニューヨークのナショナル音楽院の院長としてまねかれアメリカにわたり、数々の傑作を生み出すのですが、このチェロ協奏曲は、そんなおりに作曲されました。この作品は、古典的な協奏曲の形式の理想を満たし、なおかつドヴォルザークの際立った才能を証明するかのような、甘美で風土色の濃い魅力的な旋律が特徴で、彼の望郷の心をかい間見、音楽から放射する人間的なぬくもりが聴き手の胸を打つ忘れ得ぬ個性をもつ作品です。この曲は、普通の協奏曲の場合よりも独奏部が、はるかに密接にオーケストラと一体化して作られている為、ドヴォルザークは、カデンツァにいたるまで、他人の手を加えられることを嫌い、出版社にまで、強くその点を提示しました。

第1楽章アレグロ 4/4拍子はソナタ形式で書かれています。すなわち、提示部がまず管弦楽によって演奏され、次にチェロ独奏が加わってくり返され展開部を経て提示部を再現し、コーダに入る形式です。
第2楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポ 3/4拍子は木管楽器群によって主題がおだやかな感じで歌われる中、チェロが静かに加わってゆきます。途中ティンパニが轟き劇的な感情があらわされますが、最後は、これも静まり、平和に曲を閉じます。
第3楽章アレグロ・モデラート 2/4拍子は、ロンド形式で書かれています。活気をとりもどし、粗野で力強く曲は前進してゆきます。ボヘミア民謡や民俗舞曲を巧みに引用し、洗練されないドヴォルザーク独特の雰囲気がよく出ています。最後は、壮大な全合奏の後テンポが急激に早められ、興奮のその頂点できっぱりと曲を閉じます。彼の生みだす旋律は、まったく魅力的で、彼の愛する故郷の香りがただよっています。ローカル色の豊かさが、たくさんの人々のなつかしい感情をひきおこさせるのでしょう。彼の音楽にあたたかく人間味に富んだ現代人のための財産で、永遠にほろびることのない値打ちをもっていると思います。

ブルックナー:交響曲第7番(ノヴァーク版)

アントン・ブルックナーは、たいへん熱心なカトリック信者でした。そのことは、彼が人生のほとんどすべてを教会のオルガン奏者として献身したことや、彼の残した作品から、うかがい知ることができます。彼の残した作品は、音楽的視野から見ると他の同世代の作曲家と比べて極端に狭く、交響曲とローマ・カトリック派の教会のための宗教音楽が、ほとんどその全貌といって過言ではなく、交響曲にいたっても宗教色が濃く特に第7番以降の晩年の3曲は、自作の宗教曲からの素材の引用が目立っています。彼の神に対する崇高な気持ちや卒直な情熱がどの作品にも、よく反映されていると言えます。おそらくブルックナーは、美しく調和するハーモニーの中に神の姿をかいま見、音楽のもつ神秘的な力に魅了されたのでしょう。彼は、神聖な教会でオルガンを弾いたり、作曲をすることで、少しでも神に近づくと信じたのです。彼のそんな精神は、どこかバッハを思い出させますが精神面だけでなく、実際彼の作品は古いネーデルランドの対位法的な作風をブルックナーなりに消化した書法をみせ、それはバッハの厳格な対位法を連想させます。さて交響曲第7番は1881年から1883年にかけて作曲され1884年にはライプツィヒにおいて当時29才だったアルトゥール・ニキシュの指揮で初演されました。楽譜は1885年に初めて出版されましたが、ブルックナー自身が指揮者などが勝手に省略したり改訂、補筆することに寛容だったらしく、これにはニキシュらの手が加えられていることがハースの研究で明らかになり、原典にもどったハース版が1944年に出版されました。第1楽章アレグロモデラートは、ソナタ形式で書かれ、やはりこの交響曲でもヴァイオリンのトレモロによって開始される「ブルックナー開始」が聴かれます。第2楽章アダージョもソナタ形式で書かれ「非常に荘厳にかつ緩徐に」と指定しています。この楽章は、彼の尊敬する反ユダヤ主義者で作曲家のリヒャルト・ワーグナーの病気と死から生まれたことが書簡によって明らかになっています。またこの楽章は管弦楽の編成が拡大され、4つのワーグナーチューバ(専攻する人が少ない為、普通ホルン奏者が持ち替えて演奏します。)と、2人の打楽器を増した編成で演奏されます。

第3楽章スケルツォは三部形式で書かれ、変化に富んだ劇的な内容をもっています。トランペットによる信号音をきっかけに管弦楽が次第に性悪な悪魔的狂暴さを増していき、すべてを支配して、ティンパニの短い打撃で終止します。中間部のトリオは、対照的におだやかで流れるような歌に満ち、つかの間の憩いのようです。しかし再び信号ラッパが鳴り響き、嵐が再来し、粗野に荒れ狂ってゆきます。

第4楽章フィナーレは、ソナタ形式で書かれ第1楽章の終結部と同じように全管弦楽によって華やかに輝きながら、きっぱりと全曲を終ります。夕暮れのなかを教会の鐘の音がしずかに響くその、やさしい音色に、幼少のブルックナーも、うっとりとして耳をかたむけ、そうしていると、心がやすらぎ、しあわせな楽しい心になってきたのでしょう。ブルックナーの音楽には、そんな、純粋な感情があらわれていて、彼の音楽を聞けば、平和をいのるやすらぎの心を感じるかもしれません。彼は少年時代を過ごした聖フローリアン僧院の下に今も鐘の音を聞きながら眠っているのです。

シンバルはどこからきたか?…ブルックナーの“版”の話 高荻 泉

「ブルックナーの音楽は、好きになるか嫌いになるかのいずれかである。」と評したのは、イギリスの哲学書コリン・ウィルソンである。「彼の交響曲はいずれも、氷河のようにのろのろ這い進む、ばかでかい代物なのだ。」と彼は続ける。

なるほど、確かに長い。第七交響曲だって、通して聴くと一時間をこえる。あの音楽批評界の重鎮、吉田秀和だっていっている。「(ザルツブルグ音楽祭で、この曲をきいていたときの話である)…ところが私は、その演奏をききながら、ぐうぐう眠ってしまった。第二楽章(アダージョ)の途中で、眠りこけてしまった私は、ふっと目がさめたらまだその楽章が続いているのを知り、すっかりびっくりした。…」先日物故したチェリビダッケなんていう指揮者も、この曲をやたらゆっくりなテンポでやったもんだから、一時間半もかかってたまげた覚えがある。ともかく、オーケストラにも聴衆にもその手の並外れた忍耐を要求する曲といってよい。

さて、この長大な曲の中で、一度しか使われない楽器があるのにお気付きだろうか。ちょうど、曲の中ほど、第二楽章の終わり近くで、管弦楽が大きく盛り上がるところに入るシンバルがそれである。この楽章で一番の盛り上がりの場所だけに、この一撃はなかなか格好がよい。ところが出番はそこだけ。あと曲が終わるまで一切(!)何もしない。実に効率が悪い。(まあ、シンバルをシャカシャカ鳴らすような雰囲気の曲でもないのだけれど)

ある日、この曲のレコードを聴いていてのけぞってしまった。結構重量感のある演奏で、調子良く第二楽章まできたのだが、「あれれ、シンバルが鳴らない」のである。よくよく聴きくらべてみると、他にもシンバルの入っていないレコードがある。一体、この違いは何なのか。

たまたま、この日、シンバル奏者がお休みだったのか。そんな訳ねえよな。 手元にある解説書をひもといてみる。これはどうやら楽譜の版の関係らしい。確かに、演奏によって「ハース版」とか「ノーヴァック版」とか書いてある。ブルックナーの作品には、同じ曲に何種類もの楽譜があるようである。という訳で、前置きが長くなったが、今回はこの「版」にまつわるお話である。

作曲当時、ブルックナーの交響曲の殆どは、聴衆の好みに合わなかった。1877年、彼の第三交響曲がウィーンで初演されたときのことである。演奏が進むにつれて、どんどん聴衆が減っていき、曲が終わった時に平土間席に残っていたのはわずか七人にすぎなかったという(土田英三郎『ブルックナー』新潮文庫)。きっと残っていた奴は居眠りでもして逃げそこなったに違いない。

もともと気の弱いブルックナーのこと、不評の作品についてはとことん書き直しをすることになる。おかげで、この第三交響曲の場合、本人の手になる別々の原稿だけで三種類存在する。それも、手直し程度のものでなく、殆ど作り直しである。困ったものだ。

さらに困ったことに、ブルックナーの作品は、実際に演奏される時に、多くの指揮者によって手が加えられてしまった。指揮者のヨーゼフ・シャルク(1857-1911)やフェルディナンド・レーヴェ(1865-1925)なんかそうである。別に悪気があった訳ではない。当時の聴衆にわかりやすいようにということだけのことなのだが。しかし、おかげで、一般に知られたのはブルックナーの意図とは随分と違ってしまった。

シャルクもレーヴェも、ブルックナーの曲をなんとか多くの人に理解してもらいたかっただけなのだから、始末が悪い。しかし20世紀になって、少しずつ、ブルックナーの原典で演奏を行おうとする風潮も現れてきた。初めに、この難事業に取り組んだのが、音楽学者のローベルト・ハース(1886-1960)であった。オリジナルの姿を取り戻そうというのである。1930年代、次々とハースによる校訂作業が進み、聴衆は初めてブルックナーの真の姿に触れることができるようになった。これが「ハース版」である。ハースの仕事は順調に進んだが、第三交響曲の校訂版を残すのみ、というところで突然ハースは国際ブルックナー協会の会長職を解任されてしまう。この年、1945年、先勝国による戦争犯罪の告発が行われようとしていた。彼がナチス・ドイツ政権下で文化政策に協力したという疑念の為とも言われる。だとしたら、色々な意味で愚かなことだ。

戦後、宙に浮いてしまったハースの仕事を引き継いだのがレオポルド・ノーヴァック(1904- )であった。1951年に始まった新全集版の刊行の中で、ノーヴァックはハース版についても再検討を加えた。このため、ノーヴァック版は基本的にはハース版に立脚しながらも細部については相違点も多い。

冒頭でお話しした第七交響曲のシンバルも、実はこの違いによるものであ(※次ページへ続く)

る。はじめに校訂したハースは、ブルックナーの自筆譜にシンバルの打撃がいったん追加されたあとで、削除され、「無効」という書き込みがなされているのを発見した。ハースはこれを、初演の指揮者ニキシュがシンバルを付け加え、その後ブルックナー自身が削除したのだと解釈した。これはこれで筋が通る。

ところが、ノーヴァックによれば、「ブルックナーは『スコアでは何度もテンポの変化も含めて、たくさんの重要なものが指示されていない』とのべている」だそうだ。また、「『先の「無効」という書き込みについては』筆跡の特徴はブルックナーのそれとは全く異なっている」ことから、ブルックナー自身はニキシュの助言を容れて、シンバルの追加を認めていたと主張する訳である。

真相は果たしてどちらか。藪の中だな、こいつは。ノーヴァックの方が新しいからといって、必ずしもその方が良いとは限らない。実際のところ指揮者に任されているのが現状である。ブルックナーの伝記を書いた音楽学者のデルンベルクなんかはノーヴァックがハースの仕事をまったく理解していないとかなり辛辣な批判を繰り返している。「ノーヴァック教授がブルックナーの作品のハース版を完成させることだけにその力を注いでいたらよかっただろうに、と思わざるをえないのだ」と彼は言う。

結局、聴き手の問題に還元されることになるな。どっちにしても、第七交響曲は長い。文豪トーマス・マンは言っている。「ブルックナーの『第七交響曲』は、なかば不合理であり、なかば壮大である。」うまいことを言うものだ。

またW.H.リールは第二楽章の練習記号Wのところ(例のシンバルの鳴るところである)で言った。 「ちんっ!」

チラシ表
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