名古屋シンフォニア管弦楽団
Nagoya Sinfonia Orchestra
名古屋シンフォニア管弦楽団について
1982年4月に名古屋市及び周辺のアマチュア演奏家により結成されました。年に二回の定期演奏会を主催し現在で36回を数えます。
現在、在団者約80名がほとんど勤労者で、毎週日曜日を練習日としています。団員各々は技術的に未熟でも練習に真摯に取り組むことにより、総合力においては高いレベルにあるオーケストラであると自他ともに認めていただけるよう、団員全員が努力しています。
1993年からは、トレーナーに愛知県在住の満岡先生、フリーで御活躍中の斉藤先生をお迎えしてトレーニングをお願いしています。
これまでにとり上げた演奏曲目は、古典派からロマン派、近代にわたり幅広く、今後はなかなか取り上げられる機会の少ない曲も積極的に取り上げていきたいと考えています。
我々は、より多くの方々が、安い料金で演奏を楽しんでいただき、次の演奏会も楽しみにしていただける、そんな演奏ができたらと思っています。
ブラームス:大学祝典序曲
1879年46歳の年(彼のトレードマークでもある髭をたくわえはじめたのもこの頃といわれています)、ブレスラウ大学から贈られた名誉 博士号に対して、翌年保養地バート・イシュル滞在中に書き上げたこの作品で大学に謝意を示しました。実はこの数年前にイギリスのケンブリッジ大学からも名誉博士号の授与の話があったのですが、わざわざ遠くまで出かける用事はないとの事で辞退していたのです。しかし今回は特に断る理由がなかった為受ける事にしました。お返しに贈られる作品に関しては大学側より厳粛な雰囲気を大切にした作品にして欲しいとの要望がありましたが、ブラームスはこれら期待に反し学生歌をふんだんに取り入れるなどした陽気で賑やかな作品に仕上げました。この作品を聴いた大学側の人たちからは当初「居酒屋のドンチャン騒ぎか!」との批判的な見解もあったようですが、今日重厚で内面的なブラームスの作品にあってなにか彼の別の一面を垣間見る興味深い名作として人々に愛聴されています。ちなみに我が国のフォーク歌手さだまさしがこの曲の旋律に注目し、自作の歌に引用して流行させた事があります。
ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲
この作品は1873年40歳の年に書かれた同名の2台ピアノの為の作品の管弦楽化です。(それまでは声楽曲や室内楽曲を多く手掛けてきたブラームスでしたが、この年を契機に以後大規模な管弦楽曲を約2年に1曲のペースで作曲するようになりました)主題はハイドンの「6つの野外組曲」(又はディヴェルティメント)の第2楽章「聖アントニーのコラール」から取られました(ただし、この旋律はハイドンが作曲したのかどうかははっきりしていません)。それまでにもパガニーニやシューマン、ヘンデルといった先人の主題をピアノによる変奏曲で手掛けてきたブラームスですが、管弦楽と言うより大きな表現手段を用いて変奏曲の可能性を掘り下げようと考えました。この本格的な管弦楽曲への取り組みによる自信と確信は3年後に実現される交響曲への大きな踏み台となりました。美しいハイドンの主題に続いて8つの変奏が繰り広げられますが、最後の変奏ではパッサカリア(低音部に繰り返される単純な主題による一種の変奏手法)が用いられ、それ自体が主題と18の変奏からなる緻密で抜かりない構成となっています。
ブラームス:交響曲第1番
この曲は1876年43歳の年に完成されましたが、構想を練り始められたのは20代の頃といわれていますので、実に20余年もの歳月を経て完成された事になります。25歳で発表されたピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15の元となる2台ピアノの為のソナタを交響曲にする構想があったようです。しかし交響曲を発表する以上はベートーヴェンの9つの交響曲に負けない立派なものをというプレッシャーからなかなか筆が進まず、更に若い頃より少しでも気にそぐわない作品は焼却してしまうほど自己に対する基準が厳しくその性格が彼の交響曲の完成を遅らせたと言われています。この曲を完成させた43歳という年齢はベートーヴェンで言うと既に8つの交響曲を完成させていた年齢になります。この作品においてそこまで彼が慎重に仕事を進めていたのは交響曲というジャンルに作曲家最大の成功を託していたのでしょう。そういった経緯からこの作品は技法的な面においても過去の思い出という面においてもあまりに多くのものが詰め込まれた形となり、最初はその難解さや深刻さによって決してすぐには人に受け入れられないだろうとブラームス自身も語っていました。しかし友人の当時著名な指揮者ハンス・フォン・ビューローは「この作品はベートーヴェンの不滅の9つの交響曲に新たに付け加えられるべき価値がある」と絶賛し各地での上演に労を惜しみませんでした。ベートーヴェンの音楽の奥底に流れる根本理念「喜びは苦悩を通じてのみ得られる」はブラームスの音楽にも「悩みあるものは必ず慰められる。」という形で引継がれ息づいています。
第1楽章ウン・ポコ・ソステヌート~アレグロ=曲は苦悩をあらわすティンパニーの重い足取りで悲劇的に開始します。古典的なソナタ形式で書かれていますが提示部の繰り返しは省略される事が多くあります。
第2楽章アンダンテ・ソステヌート=前楽章とは対照的にこの楽章には安らぎと叙情が与えられます。自然を愛したブラームスの澄んだ感性が美しく顕れています。
第3楽章ウン・ポコ・アレグレット・エ・グラツィオーソ=穏やかな性格のスケルツォで壮麗な音響を節約した室内楽的情緒で後続楽章との対比を強めています。
第4楽章アダージョーアレグロ・ノン・トロッポ・マ・コン・ブリオー=全曲の過半を占める長大な楽章で悲痛に開始されます。しかしすぐに落ち着き険しい山々に朗々と鳴り響くようなホルンの旋律が現れ安堵を暗示します(これは以前シューマン夫人クララの誕生日に贈られた曲の引用です。シューマンに才能を見出され世に送り出されたブラームスはシューマン夫妻には大変な恩があった為、感謝の意が込められているのかもしれません)。曲は次第に情熱的に展開し、ついにそれまでの苦悩を克服する凱歌によって人生の肯定を確信し力強く終結します。
ブラームスは常に厳しい判断基準を自分の中に向け大切にしました。この事はふつう大変困難な事ですがその実践こそが偉大への唯一の道と確信していたのです。他のどの批評家よりも厳しい批評家を彼は自分の心の中に抱いていました。その結果彼は周囲の軽率な賛辞や批判、時代や流行に左右される事なく着実に自己の円熟への道を歩みました。彼の音楽にはその過程がすべて滲み出ており、彼の人生において大切な宝とした厳しい自己批判の精神が人間を成長させるという証しを現代を生きる私達に音楽という形で提示しました、一見抽象的と言われる音楽芸術の伝える内容と深さに限りない可能性を彼の音楽からも感じる事ができるかもしれません。
ハンスリックとブラームス 高荻 泉
読者諸氏の中にも、話題のコンサートへ行ったり、新譜のCDを買った後で、自分の素直な感想をそのまま他人に伝えてしまってよいものかどうか躊躇する、といった経験がひょっとしたらおありではないだろうか。「いや、そんなことはない。」といえる方は人間ができている。私のように性格が控えめだと、そのあたりが難しい。自分が絶賛しておいたのに、専門誌で散々の悪評だったらと思うと夜も寝られないではないか。しかし、しばらくしてから、新聞や音楽誌の批評を読んで、自分の考えと同じようなことが書かれていたらしめたものである。途端に態度が大きくなって、「いやぁ、今月の『○○の友』にも書いてあったけど、あの演奏はね…。」などと批評家氏の受け売りやウンチクをたれるようになる。特に私の場合、チケット代が高額になるほどこの傾向が見えないこともない。困ったものだ。
是非はともかく、書店の店頭には音楽業界誌が並び、今の日本では音楽評論家の影響力が極めて大きなものになっていることは事実である。メディアを制することはある意味で権力なのである。
19世紀のヴィーンにも、辛辣な批評で恐れられていた音楽評論家がいた。エドゥアルト・ハンスリック(1825-1904)である。プラハに生まれ、大蔵省の官吏をしていた彼は新聞への投稿が認められ、やがて音楽批評の世界に身を投じることになる。ブラームスが世に出た時には、既にヴィーンの音楽批評界の重鎮として活動をしていた。
ブラームスも彼の洗礼を受けることになるのだが、古典的な均衡美と内面性を重視するハンスリックの主張に、ブラームスの音楽がぴったり一致したようである。1876年12月のブラームスの第1交響曲の初演をハンスリックはこう評している。
「楽界全体がこれほどまでに切なる思いで、一人の作曲家の最初の交響曲を待ち望んでいたというのも、ほとんど例のないことだ。……ベートーヴェン後期の様式にこれほどまでに近づいた作曲家は、この終楽章を書いたブラームスをおいて他にいない」べたぼめである。当時のヴィーンの聴衆の多くがこうした評を読んで、ブラームスを偉大な作曲家として、支持したというのもうなづける話である。
ここで、ちょっと別の批評を紹介しよう。翌年、この曲が海を越え、ニューヨークでアメリカ初演された時の評である。
「熱心な支持者を含めて、ほとんどの人は今度のブラームスの新作にがっかりしている。驚いたことに、この曲の最初から最後まで、どこかで聴いたことのあるテーマでいっぱいなのである。」
新大陸のお客さんは、どうやらお気に召さなかったらしい。やはり物事には、色々な見方があるということなのだろう。だが、問題は、先のハンスリックには、ヨーロッパの音楽界を左右できるほどの発言力があったということなのだ。
よく知られていることだが、当時の音楽の都ヴィーンでは作曲家自身の意志とは別に、ブラームス派とヴァーグナー派が音楽界を二分しており、多くの作曲家も評論家も、その対立の波にのみこまれていた。そして、その急先鋒に立っていたのがハンスリックであった。
「感情の表現は音楽の内容ではない」とする彼にとって、ヴァーグナーの楽劇はグロテスクな音の怪物でしかなかった。彼は気に入らぬものを容赦なく攻撃した。主著『音楽美論』の中で、彼はヴァーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』や、『ニーベルングの指環』について、「一つの原理にまで高められた無形式性で、演奏される阿片陶酔である」と評している。
ヴァーグナー派だって、黙っていない。ヴァーグナー自身、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の中でベックメッサーという敵役を登場させるのだが、これがハンスリックを戯画化していることはよく知られている。(ちなみに、ヴァーグナーのスケッチの段階ではハンスリッヒ(!)という名前だったとか)。また、ヴァーグナーに心酔する作曲家フーゴー・ヴォルフ(1860-1903)はブラームスの第4交響曲のことを、「ブラームスの創作力が退歩してきているのは驚きだ、……無内容さ、空虚さ、そして偽善ぶりが第4交響曲を支配している」と酷評する始末であった。対立は激化の一途をたどる。
しかし、こうした対立をブラームス自身は望んでいた訳ではなさそうである。彼はヴァーグナーの作品を積極的に研究していたふしが見受けられる。共感しなかったにせよ、理解しようと努めていたのである。1883年、ヴァーグナーの死の報せを受けた彼は、「巨匠が死んだ、今日はもう何も歌うものはない」と語り、合唱団の練習を打ち切ったという。
ハンスリックは、既に1870年、ヴィーン大学の教授に迎えられていた。作曲もせず演奏もしなかった彼は音楽評論だけでヴィーン音楽界の一つの頂点へとのぼりつめたのである。一方、先のヴォルフは多くの歌曲など珠玉の作品を残したものの、存命中はハンスリックを中心としたヴィーンの音楽界には認められず、若くして精神を病み、不遇な生涯を閉じることになる。
現代のイギリスの思想家コリン・ウィルソンはハンスリックについてこう言う。
「19世紀後半で疑いなく最もいやしい人物の一人である。……彼は自分の反ロマン主義を平気で個人的な問題にすりかえ、その結果、ブラームスを大音楽家たらしめている諸特質がまったくインチキな形で具現化されてしまう……。」
しかし、もし、ハンスリックが大衆の支持を得られなかったら、おそらくブラームスはいまほどの名声を得られなかったかもしれない。音楽評論の世界を開いた人物は功罪相半ばする伝説を作り上げた。歴史的事実というものは、そうしたちょっと不条理なものであるらしい。少なくとも、私のせいではない。