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第39回定期演奏会

2001年7月29日

愛知県芸術劇場コンサートホール

愛知県 名古屋市東区

シベリウス 交響曲第1番
ブルッフ ヴァイオリン協奏曲
ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲 第3番
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ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲 第3番

ベートーヴェンは彼の完成した唯一の歌劇「フィデリオ」のために4種類の序曲を作曲しました。 第1版(1805年初演)が不評に終わり、第2版(1806年初演)も意にそわなかったため、さらに改稿した第3版(1814年初演)が作られました。 第1版の序曲は「レオノーレ」第2番作品72a、第2版の序曲は「レオノーレ」第3番作品72bで、他に第3版のために「フィデリオ」序曲とは別に作曲されたと思われる序曲ハ長調作品138があり「レオノーレ」第1番と呼んでいます。 現在では「レオノーレ」第3番は歌劇の第2幕の前奏曲のかたちで挿入するのが普及していますが、この習慣はマーラーがウィーン時代にはじめたのがきっかけでした。 序曲はソナタ形式で書かれた長大で堂々たるもので、歌劇の劇的な内容を暗示した構成の非常にすぐれた作品となっています。 またこの曲を特に有名にしているのは後半になって出てくる大臣の到着を告げる部分からフィナーレを暗示するクライマックスの部分で、これは舞台裏で演奏されるトランペットのファンファーレが2度繰り返されるのがきっかけとなっています。

ブルッフ ヴァイオリン協奏曲

この作品は1866年、コブレンツの演奏協会で指揮者をしていたブルッフ28歳の時に完成されました。彼がこの作品をスケッチしはじめたのはわずか19歳の時ですので実に9年もかかってようやく完成した労作と言えます。ブルッフ自らの指揮、ケーニッヒスロウの独奏によって初演されましたがブラームスと各地へ演奏旅行に出掛けた事でも有名な友人の大ヴァイオリニスト・ヨゼフ・ヨアヒムがこの初演に注目しその後大幅な改訂を加え現在の形になりました。結果的に作品は彼に捧げられました。この作品は発表当時から絶大な人気を博し、演奏会で頻繁にとりあげられました。彼はこの作品の成功が後にプレッシャーとなり彼自身この作品を「私はこの曲に呪われている…」と語ったとも言われております。全体は3つの楽章から構成され、「前奏曲」と称される第1楽章と後続の第2楽章は切れ目無しに演奏されます。 

第1楽章 アレグロ・モデラート:ティンパニと木管の短い前奏に続いて、独奏ヴァイオリンのカデンツァ(=独奏者の技巧的な聞かせどころ)が情熱的な第1主題を導きます。 

第2楽章 アダージョ:前楽章に続いて独奏ヴァイオリンが叙情的で美しい旋律を奏でます。(R・シュトラウス作曲アルプス交響曲に似た楽句が現れます) 

第3楽章 アレグロ・エネルジコ:軟化した気分を振り払うかのように活発な曲調ですすめられ、終始独奏ヴァイオリンが主導的に技巧的な速いパッセージを披露します。

シベリウス 交響曲第1番

シベリウスは10代の頃より音楽に傾倒し特にヴァイオリンを手にしてからの熱中ぶりは相当なものでした。ヘルシンキ大学の法学部に入学したのですが結局音楽への興味が抑え切れなくなり中退しヘルシンキ音楽院で学び始める事になりました。当時ヴァイオリニストを目指しましたが極度のあがり症を克服できず演奏家の夢を捨て作曲に専念します。卒業後ウィーン・ベルリン 作曲の勉強の為留学しますがこの時期にフィンランドの民族的叙事詩「カレワラ」に出会い、祖国への思いを強く抱く様になります。その頃のフィンランドはロシアの圧政に苦しんでおり皇帝ニコライ2世はフィンランド国民による自治政府を認めない宣言を出したり公用語もロシア語を強要するなど相当のストレスをフィンランド国民に与えていました。シベリウスは民族独立思想の高揚に多大な影響を受けフィンランド国民の心に訴えるような管弦楽作品(他楽章制のカンタータ風大作「クレルヴォ交響曲」、愉快な行進曲で知られる組曲「カレリア」や交響詩「フィンランディア」など)を次々と発表しフィンランド国内でもっとも将来を嘱望された期待の作曲家として名声を高めていました。この第1交響曲は周囲の多大なる期待を集める中作曲され、ヘルシンキにおいて作曲者自身による指揮で初演されたおりには聴衆はこの作品の持つ偉大な個性に熱狂しました。翌年にはパリ万国博覧会でもヘルシンキ市立管弦楽団によって演奏され国外にも広く彼の名が知られるようになりました。

第1楽章 Andante ma non troppo・Allegro energico:素朴なクラリネット・ソロに導かれ曲が開始されます。主部は対照的に生き生きと躍動し大らかな感情が頂点にまで達します。 第2楽章 Andante (ma non troppo lento):緩徐楽章ですが中間部では感情の高揚も見られ劇的な要素を含んだ楽章です。伴奏部は非常に工夫が凝らされており無機的なトリルの断片や単調な持続音などが豊かな主旋律と精巧に組み合わさって独特の清涼感と神秘的響きを作っています。 第3楽章 Scherzo (Allegro):5度音程が各楽器間で受け継がれて印象的な音楽を作っています。アンサンブルに極度の集中力を要求する難曲としても知られています。 第4楽章 Finale (Quasi una fantasia-Andante-Allegro molto):第1楽章冒頭のクラリネット・ソロ旋律が悲痛な全合奏で開始し、激しい情熱で展開していきます。それとは対照的に鋭利な感情を癒すかのような美しく哀愁感ある主題が再現のたび響きに厚みを加え印象的なクライマックスを築きます。

孤高の作曲家シベリウス 高荻 泉

いきなり、話題が脱線するが、少し前、ヒットした映画で、レニー・ハーリン監督の、『ダイ・ハード2』という作品を覚えておられるだろうか。ブルース・ウィリス扮するマクレーン刑事が国際空港を占拠したテロリストと戦うアクション映画であった。マクレーン刑事がテロリストを退治して、めでたしめでたしのラストシーン。燃料切れの旅客機が、吹雪の滑走路に次々と着陸してくる所で、こともあろうにシベリウスの「フィンランディア」が大音量で鳴り出してきた記憶がある。ロシアの圧政からの独立を願う北欧の愛国的交響詩が、いきなり、能天気な映画音楽になってしまったのである。ううむ、おそるべし、ハリウッド。

個人的な好みから言えば、ブルース・ウィリスはTVの『こちらブルームーン探偵社』(シビル・シェパードが共演してたっけ)のほうが味があってよかったな。「ダイ・ハード」シリーズで人気が出てからは、ワンパターンの役ばかりである。

脱線のついでだが、ハリウッド映画はどうも昔から大作曲家の音楽をパクっている。「逢いびき」で、ラフマニノフのピアノ協奏曲が使われたのは有名な話だが、他にも『さよならをもう一度』(だったっけ?)ではブラームスの第3交響曲の第3楽章が、これでもかというくらいに、スクリーンに甘美なメロディーを撒き散らしていた。もちろん例外もある。大作曲家の作品からの格調の高い引用もあって、68年の巨匠キューブリックの名作『2001年』の冒頭はやはりシュトラウスの「ツァラトゥストラ」が相応しい。月と地球と太陽が三重に重なって、太陽光からのハロウが眩しく観客の目を射るあのファーストシーンに、シュトラウスの壮大な楽曲がマッチして素晴らしい効果を挙げていたことを覚えておられる方もいることだろう。(ちなみに、本当は『2001年』の音楽はアレックス・ノースに依頼されていて、既にスコアも書き上げられていたにもかかわらず、キューブリックがお蔵入りにしてしまったらしい。さすが名監督である。)

ずいぶん話がずれたが、シベリウスの最初の交響曲が書かれたのは、1899年、実は先述の「フィンランディア」と同じ年である。どちらの曲も後の作品と違って、ロマン的で、民族主義的な情熱的な曲で彼の作品の中では人気も高い。ところが、この曲が書かれた頃、シベリウスを取り巻く状況はあまり恵まれたものとはいえなかったようである。この頃既に声楽付きの大作「クレルヴォ交響曲」を書き、それなりの名声を誇っていたシベリウスであるが、実生活では挫折が続いた。数度にわたるドイツ・オーストリアへの留学と旅行の中で、彼はヴァーグナーの楽劇に失望し、構想していた北欧神話『カレワラ』を題材としたオペラ作曲をあきらめたのも、その一つである。(断念されたオペラの曲からは後に「レミンカイネン組曲」が生まれている。)

シベリウスにとって、もう一つの痛手は、ライバルとの足の引っ張り合いだった。ロベルト・カヤヌス(1856-1933)といえば、戦前のフィンランドを代表する大指揮者で、シベリウスの交響曲をレコーディングしていることでも知られている(CDでも復刻されている)が、シベリウスとの関係は必ずしも良好なものではなかった。1896年、ヘルシンキ大学の音楽教授の席が空いた時、適任者はカヤヌスとシベリウスの二人に絞られていた。国内の権威筋はシベリウスを推したのだが、カヤヌスは当時フィンランドを支配していたロシアの当局者に働きかけ、殆どシベリウスで決まっていた教授就任を逆転させたのである。ちなみに、教授選考審査のためカヤヌスが提出した論文は40年前に書かれた他の本からの盗用であったと、音楽学者のソットゥネンは伝えている。

意外な事だが、シベリウスは精神的にも頑健なほうではなかったという。つまり、意志が弱かったのだ。第1交響曲が書かれた頃も、なかなか仕事に集中できず、遊びと酒におぼれた。政府からの芸術家年金は給付されていたものの、時には借金に追われることもあったらしい。

さらに、自作の演奏会でステージに立つことに恐怖をおぼえ、それもアルコール依存の大きな原因となった。彼を立ち直らせたものが何であったのか、今となっては知る由もない。翌1900年パリの万国博覧会で、ヘルシンキのオーケストラがパリ公演を行い、ここで初めてシベリウスの第1交響曲は広くヨーロッパの聴衆に聴かれるようになったのである。その後、シベリウスはフィンランドの国民的作曲家として、七曲の交響曲や多くの交響詩を始めとする名作を精力的に発表することになる。20世紀最大の作曲家の一人といってよいだろう。

しかし、彼の作品は1920年の終わり頃から、全く書かれなくなる。以後死までの30年間彼は、沈黙を守り続けた。この理由も誰にも分からない。今自分の音楽がアクション映画になんぞ使われていることをシベリウスが知ったら何というだろうか。やっぱり、沈黙かな。

チラシ表
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