top of page
第40回定期演奏会

2002年1月27日

愛知県芸術劇場コンサートホール

愛知県 名古屋市東区

R.シュトラウス 交響詩「ドンキホーテ」
ストラビンスキー 管楽器のためのシンフォニー
モーツァルト 交響曲第41番「ジュピター」
​

​

モーツァルト:交響曲第41番ハ長調 K.551「ジュピター」

幼少より天才と認められ育ったモーツァルトは成人に達すると社会の荒波にまず耐えなければなりませんでした。彼はハイドンのように従順な食客や宮廷のお抱え音楽家になる事を嫌い、経済的に不安定であっても自由でありたいとの強い意思があり、彼は雇い主の要望を考慮することなく作曲を続けたのです。その結果仕事も徐々に減り生活の為には作曲の仕事に優劣なく、数をこなす事が強いられたわけです。結果彼は35年の短い生涯に600曲を超える作品を残す事になるのですが、仕事の乱作であってもそこには元来の純真無垢な音楽の魅力は失われる事はありませんでした。32歳の時に作曲した最後の交響曲、第41番は借金苦と貧困状態の中、自作の演奏会の為に一気呵成に書き上げた性格の異なる3つの大作交響曲(彼の芸術の最高点を示す傑作中の傑作)の一つにあたります。驚くべきスピードで作曲されており、第41番に至ってはわずか14〜15日で書き上げました。彼の自筆の譜面には書きなおしの痕がほとんどなく、彼の頭の中では完全な状態で音楽が出来あがったものを清書するだけだったようです。結局予定されていた演奏会は延期になり、耳にすることなくこの世を去ってしまいます。最後の彼はその輝かしい音楽とは対照的に貧素な葬儀しか行なわれず身内のごく数人が参列しただけだったと伝えられています。聖マルクス墓地の一角に埋葬されたらしいのですが、彼の妻でさえ立ち会っていず、その場所は当時より特定できずにいます。

第1楽章=アレグロ・ヴィヴァーチェ・ハ長調・ソナタ形式:序奏は置かれずいきなり主題が提示されます。展開部は対位手法が複雑にめぐらされ技巧的です。明るく堂々とした風格と威厳を備えた立派な楽章です。 

第2楽章=アンダンテ・カンタービレ・ヘ長調・変奏曲形式:弱音器を取りつけた弦楽器が澄みきった情感を出します。 

第3楽章=メヌエット・アレグレット・ハ長調:優雅なメヌエット楽章です。 

第4楽章=フィナーレ・モルト・アレグロ・ハ長調・ソナタ形式:楽章冒頭で提示される4音を素材に高度なフーガ手法を駆使した技巧で堅固な構造が作られていきます。全能の神「ジュピター」の名にふさわしい壮大な建築物を思わせる威容を備えた楽章です。

イーゴリ・ストラヴィンスキー:管楽器の為のシンフォニーズ

1920年に作曲された彼にとって2番目にあたる交響曲ですが、リムスキー=コルサコフ監督の下で書かれた習作第1交響曲のような従来の「交響曲」と言う概念で書かれた音楽とは程遠く「音の交響」と言う意味合いでこの題名を理解したほうが良さそうです。楽章も単一で題名通り弦楽器を省略した木管楽器と金管楽器の編成で演奏される短く簡潔な作品です。後半特に印象的に響くコラールが特徴です。これはもともとピアノの為にかかれたコラールでドビュッシーの追悼のために書かれたものです。この曲以前に書かれた1910年のバレエ「火の鳥」、翌年の「ペトルーシュカ」1913年の「春の祭典」などとは大きく書法を転換した簡潔な書の新古典主義的傾向が強く現れており、彼の持つ多面的な部分の1つを示す重要な作品と言えます。

リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン=キホーテ」作品35
(独奏チェロと大管弦楽の為の騎士的な性格の主題による幻想的変奏曲)

「ドン=キホーテ」はスペインの作家セルバンテスの小説を元に書かれた作品ですがここに登場する「ドン=キホーテ」は騎士の真似事をして馬ロシナンテと従者の農夫サンチョ・パンサ(パンチョと言いたくなりますね)をつねまわし、弱きを助け強きをくじくと言った奇行が滑稽に描写されています。これは当時流行していた「騎士道」に対しての痛烈な諷刺精神の表われなのですが一方では自分の信念に対して決して妥協しない直向きや純粋さをも持ち合わせている彼の姿が浮き彫りになっています。夢を追いかけはかなくも実現できなかった一人の人間の最後に迎える現実的な最終部分にまで至りますと自らの投影を垣間見る人も少なくないのではないでしょうか。さてシュトラウスは以前の作品「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」ではロンド形式、「ツァラトゥストラはこう語った」ではソナタ形式を使用し大規模な交響詩を作曲しましたがこの「ドン=キホーテ」を作曲するにあたって変奏曲形式を使用しました。序奏と主題提示に続いて10の変奏と終曲の構造となっており、序奏ではドン=キホーテが「古い騎士物語」に影響されついに旅に出てしまうまでの道のりが表され、それに続く10の変奏は「ドン=キホーテ」の数々の奇行が変化に富んだ変奏で表されます。終曲は実質11番目の変奏曲ですがここでは彼の安らかな「死」が表され、すなおに締めくくりとなります。

序—田舎紳士のドン=キホーテは「騎士」の書物に読み耽っています。そのうち彼はその気になり、幻の貴婦人ドルシネアを求めるべく旅に出る決意を固めます。この序の部分ではドン=キホーテ、貴婦人ドルネシア、従者パンサらの主な登場人物の提示と旅に出る決意までが管弦楽で表現され、その後に主題の提示が独奏チェロによってなされます。独奏チェロはこれから起こる悲劇の張本人ドン=キホーテその人なのです。

第1変奏「出発・風車の冒険」—彼は風車を巨人と間違え風車に向かって剣を振りかざします。格闘しますが振り落とされてしまいます。その場面をハープのグリッサンドでリアルに表現します。

第2変奏「羊に対する冒険」=羊の群れを敵の軍勢と間違え中に飛び込んで行きます。金管楽器が羊の鳴き声を表現します。

第3変奏「パンサの望み、話と名誉のたより、彼らの体験すべき夢の国についてのドン=キホーテの反論」—ドン=キホーテは現実的なパンサの話に腹を立て最後は強い口調で教え論じます。ここではそういった二人の対話を描写します。

第4変奏「行列への冒険」—祈りの行列の中のマリア像を幻の貴婦人ドルネシアと錯覚し飛び込んでいきますがかえって叩きのめされます。

第5変奏「木陰で木によりかかり寝もやらず幻の貴婦人ドルネシアのことを思うドン=キホーテ」

第6変奏「ドルネシア」—汚い農婦をドルネシアと思い込み丁寧に挨拶するドン=キホーテの姿が描写されます。

第7変奏「ドン=キホーテの空中飛行」—女たちに目隠しをされ木馬に乗せられたドン=キホーテは空中飛行と錯覚しいい気になります。

第8変奏「船出」=水車小屋の番人を悪魔と思い込み格闘になりますが、舟は転覆。ドン=キホーテはおぼれかけます。

第9変奏「修道士への攻撃」

第10変奏「決闘と故郷」=ある男より決闘を申し込まれ敗れてしまいます。おとなしく故郷に帰ることをその男に約束しますが実はその男は彼の友人カラスコで、心配になって旅をあきらめさせるつもりで決闘をわざと申し込んだのでした。

終曲=正気に戻った彼はこれまでの冒険やドルネシアの断片を回想しつつ安らかに臨終を迎えます。

セルバンテスは自身が戦争で片腕を亡くし、帰郷途中襲われ数年間もの過酷な奴隷生活を体験しました。この「ドン=キホーテ」と言う作品は「戦う」と言う事が「勇ましさ」や「男らしさ」の象徴として美化される事に抵抗を感じたその表われだったのかもしれません。

20世紀を音楽家達はどう生きたか 高萩 泉

某「国営放送」が毎週日曜日に放映しているのだが、その局が持っているオーケストラを紹介する番組がある。情けない落語を口走る作曲家と、「連想ゲーム」以外では見かけない女優が出ているあの番組である。先日、そこで紹介されたのは、なんと動くストラヴィンスキーの映像ではないか。大阪のフェスティバルホールで、その放送局のオーケストラ相手に自作の『火の鳥』を振々と振っている図であった。彼が来日したのは今から40年以上前の1959年のことである。

ロシア出身のストラヴィンスキーが、実はイタリア・ファシスト党のムッソリーニに熱烈な支持を与えていたことはあまり知られていない。ストラヴィンスキーがアメリカに移住したのが、1940年、第二次世界大戦開始直後であったこともあって、一見、ナチスの迫害を避けようとした悲劇の音楽家のようにみえるのだが、実際はどうも様子が違うようである。

「健全なアーリア人」による国家建設を目指したドイツ第三帝国にとって、ストラヴィンスキーの音楽は「退廃的」として非難されてしかるべきものであった。例えば、1934年『フェルキッシャー・ベオバハター』におけるシュテーゲの論説では『春の祭典』はユダヤ人社会の後援を受け、真正芸術として提示された騒々しい喜劇役者による異人種の音楽」と激しい糾弾を受けている。ところが、ナチ時代の音楽状況についての優れた研究者であるリーヴィーによれば、ストラヴィンスキーはナチスドイツに自分を売り込もうとしたふしが見られるという。彼と彼の出版権を持っていたショット社との契約が、そこには絡んでいる。ショット社にとってストラヴィンスキーという知名度は、社に大きな名誉を与えるものだったのである。またストラヴィンスキー本人もドイツでの名声を保ちたいという打算が働いたようである。さらに、ドイツでストラヴィンスキーの作品を上演し続けることは、出版社にも作曲家本人にも多額の著作権収入をもたらすことを意味した。ショット社はストラヴィンスキーにドイツ国内での上演料の送金を保障する一方で、ストラヴィンスキーのファシズム寄りの政治姿勢を宣伝することによって、ナチ宣伝部に彼の音楽を諦めさせようとしたのである。当時ナチ政権下で創設された「帝国音楽院」の総裁を務めていたリヒャルト・シュトラウスはフランクフルトの新聞にこう寄稿した「彼はアドルフ

ヒトラーの考えに熱狂している」。ストラヴィンスキー自身の政治姿勢がいかなるものであったか、今となっては推し測る術はないが、彼はこれに異論を唱えることもなく、アメリカへ移住するまではドイツ国内での著作権使用料を受け取り続けた。

一方ドイツ国内では、ナチによるユダヤ人の排斥が開始されていた。シェーンベルクやワイルを始めとするユダヤ系音楽家は亡命を余儀なくされ、あるいは優れた演奏家がオペラハウスやオーケストラからその職を奪われていった。非ユダヤ系であってもヒンデミットのようにナチ体制以前のワイマール時代に支持をあたえつつユダヤ人スタッフと組んで、優れた作品を作り続けた芸術家達も例外ではなかった。指揮者のフルトヴェングラーもヒンデミットを擁護したが故に政治的な圧力をかけられ、公的な音楽ポストの辞任に追い込まれた。

ドイツ音楽界の重鎮リヒャルト・シュトラウスも時代の波に翻弄され続けた。1935年に初演された彼の『無口な女』は台本作家がユダヤ人のツヴァイクであったため、ナチ当局に睨まれることになる。結局シュトラウスもこれがきっかけで「帝国音楽院」総裁の地位を失うことになる。

戦火の拡大につれて、ドイツ国内に留まったユダヤ系音楽家には過酷な運命が待ちうけていた。シェーンベルクに師事し、オペラ『反キリスト者の没落』などで知られ、当時の出版社の作曲賞を二度も受賞している作曲家のウルマンや、やはり著名なオペラ作曲家ハース、子供向けのオペラ『ブルンジバル』を作曲したクラーサらは、ゲットーでの収容生活を余儀なくされ、1944年10月、アウシュヴィッツに移送されていった。他の多くのユダヤ人と同様、彼らが生還することは遂になかった。

生活の拠点をアメリカに移し、まもなく市民権を取得したストラヴィンスキーは、創作活動、演奏活動に充実した晩年を過ごした。

戦後、日本にやってきたストラヴィンスキーに一人の日本人音楽家が英語で話しかけた。弟子のクラフトによれば、彼にはそれが「ドナルド・ダック」のように聞こえたという。実に無礼な奴である。

チラシ表
bottom of page