名古屋シンフォニア管弦楽団
Nagoya Sinfonia Orchestra
指揮 今村 能(いまむら ちから)
1954年生まれ。ポーランド国立歌劇場指揮者。国立音楽大学卒業。桐朋学園大学指揮科研究生修了。カラヤン、ホルヴァート、フェッラーラ、小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、高階正光の各氏に師事。
77年ベルリン・フィルを指揮し、カラヤン・コンクール・ジャパンに入賞。78年カラヤン氏の招きでザルツブルク・ベルリンに留学。
80年イタリア・カンテッリ国際指揮者コンクール・ベスト4。ミラノ・スカラ座管を指揮。83年フィテルベルク国際指揮者コンクールで1位優勝。ポーランド国立歌劇場賞受賞。
以来、ワルシャワ・フィル、ポーランド国立放送響等ポーランドの主要楽団を度々指揮。イタリア放送響、ウィーン・フィル木管合奏団、リトアニア国立響、ヘルシンキ・フィル等、欧米最高峰の楽団を多数指揮(世界12ヶ国・34楽団)。
日本でも、N響、読響、大阪フィル等、全国24もの主要楽団を客演指揮。新楽団の創設にも尽力し、ワルシャワ響(84-05年)、オーケストラ・アンサンブル金沢(88-90年)、東京ハルモニア室内管(90-96年)等、設立時の指揮者を歴任。一流楽団に育成する手腕には定評がある。
96年より国立音楽大学オペラ研究会指揮者。99年より「ポーランド国立ウッジ歌劇場指揮者」。02年より日本人初のワルシャワ・ポーランド国立歌劇場「常任指揮者」に就任。08年と10年2月にはポーランド国立歌劇場と在ポ日本国大使館共催「日本の夕べ」を指揮し両国の文化交流にも貢献。
09年イタリア・ベルギー・ポーランド共同制作「サムソンとデリラ」音楽監督。イタリア・スポレート歌劇場、ミラノ・スカラ座をはじめ世界屈指のオペラ劇場で指揮。
現在、国立音楽大学指揮法講師、二期会オペラ研修所マスタークラス講師、多摩フィルハーモニア協会音楽監督、日本ルトスワフスキ協会副会長。世界を舞台に活躍中。
名古屋シンフォニア管弦楽団について
1982年に名古屋を中心に活動する音楽愛好家により結成されました。その後、地元名古屋はもとより全国各地から来た転勤者も多く加わり、現在では、約90名規模のオーケストラに成長しています。年2回の定期演奏会も中断することなく開催し続け、昨年30周年を迎えることができました。
練習は毎週日曜日に、厳しい中にも楽しく充実感を得られる内容を心がけています。また多くの先生方より、演奏技術、音楽論、さらに人生論(?)までご助言をいただきながら活動しております。舞台から溢れる音楽を愛する喜び、そういったものがお客様に伝わり共に楽しめるステージになれば幸いです。
チャイコフスキー:幻想序曲「ロメオとジュリエット」
ロメオとジュリエット。
この二人の名前は恐らくほとんどの方がご存知でしょう。
世界中で“悲恋の物語”として知られているシェイクスピア劇の主役の二人です。
この甘美で切なくも悲しい物語を、叙情的な旋律で知られるチャイコフスキーが20分たらずに込めた曲が本作です。
曲を通じて、物語の世界をご堪能ください。
【序章〜二人の出会い】
この物語の悲劇性を暗示しているかのようなクラリネットとファゴットの音色で曲が始まります。弦楽器が入ってくると出会いの場面に移り、ハープの音色と共に恋に落ちていく様が描かれます。
【モンタギュー家とキャピレット家の戦い】
モンタギュー家とキャピレット家、仲の悪い両家の間で、血で血を洗う喧嘩がついに発生します。弦楽器の刻みと管楽器のメリハリのあるメロディで両家の緊張感を表現します。
【二人の愛の主題】
月夜の下、バルコニー越しに見つめあう二人。「おお、ロメオ、あなたはなぜロメオなの」というかの有名なセリフの場面です。月の光が降り注ぐような弦の音色の後に、管楽器が二人の燃えあがる想いを、ハープが純粋な愛を奏でます。
【争い〜結ばれる二人】
再び両家の争いが発生し、緊張感が増しますが、二人は障害に負けず、生涯愛し合うことを誓います。二人が結ばれる場面は、打楽器、管楽器の力強い音をバックに弦楽器が高らかに歌い上げる一番の見せ場です。
【悲劇の発生〜クライマックス】
ジュリエットの従兄弟を殺してしまったロメオ。彼と共に生きるため薬により仮死状態となったジュリエットですが、そうとは知らないロメオは彼女の後を追い自殺してしまいます。そして目覚めたジュリエットも彼の後を追います。
クライマックスらしく戦いを思わせる弦の荒々しい旋律に加え、狂っていく二人の運命を管楽器が唄い、トランペットが高らかに響きわたった後、ティンパニの響きと共に誰もいなくなります。
【終章】
ティンパニの重く静かな響きを背に、管楽器・弦楽器による悲しみをもった厳かなメロディが流れた後、弦の高音の響きで天国に昇っていく二人の姿が奏でられ、物語は終わります。
バルトーク:舞踊組曲
バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ
(Bartók Béla Viktor János、1881年3月25日 - 1945年9月26日)
ハンガリー生まれの作曲家、ピアノ演奏家、民俗音楽研究家。
舞踊組曲は1923年、ハンガリーの2つの都市、ブダ(Buda)とペスト(Pest)の合併50周年記念の式典用に、コダーイの「ハンガリー詩篇」、ドホナーニの「庄厳序曲」とともに政府の委託によって作曲された作品である。初演は同年11月19日、ドホナーニの指揮によって行われた。初演は好評で、その後ヨーロッパ中で幾度も演奏され絶賛を受けた。
ブダペスト市の祝祭に向けて「舞踊組曲」というタイトルからはハンガリーの民族色を前面に押し出した華々しい曲が想像されるが、冒頭はファゴットの(A-B-A♭-C♭)というアラブ風の(祝祭向けとは言い難い)旋律から始まる。初演の際はブダペストの聴衆も「おやっ?」と思ったことだろう。そんな意外な始まり方で聴衆の意識を曲に集中させた後、ハンガリー風の舞曲をところどころに登場させて聴衆の期待に応えながら、最後は祝祭らしく華やかに幕を閉じる。初演時の聴衆の興奮が目に浮かぶようである。
バルトークは自国ハンガリーだけでなく、東ヨーロッパ各国や遠くアフリカのアルジェリアにまで足を運び、各地の民俗音楽を収集・分析した。そのため彼の残した作品には、「ルーマニア舞曲(1911年)」、「トランシルヴァニア舞曲(1931年)」、「9つのハンガリーの農民歌(1933年)」など、各地の民俗音楽を題材にしたものが多い。
さらにバルトークはそれだけにとどまらず、各地の民俗音楽の特徴を取り入れ、彼独自のスタイルを確立した。舞踊組曲の説明をする際に先程からアラブ「風」とかハンガリー「風」という言葉を使っているのは、この曲の主題が民謡ではなく、すべてバルトークの自作だからである。
曲の全体は、5つの舞曲と終曲という6つの部分からなっておりそれぞれの曲間がリトルネロ(Ritornell)と呼ばれる間奏曲で繋がれている。リトルネロは反復の意味で、本来は独奏部を挟んで反復演奏される総奏(部)のこと。
【第1舞曲 モデラート】
前述のとおり、ファゴットの(A-B-A♭-C♭)というアラブ風の旋律から始まった後、リトルネロがハンガリー民謡風の静かな旋律でヴァイオリンによって演奏される。
【第2舞曲 アレグロ モルト】
ハンガリー風の激しい舞曲。怒濤のような舞曲が静まると、ハープのグリッサンドで再び雰囲気が一変してリトルネロに入る。
【第3舞曲 アレグロ ヴィヴァーチェ】
前曲同様ハンガリー風の軽快な舞曲。この曲はリトルネロなしで休みなく次の曲に続く。
【第4舞曲 モルト トランクイロ】
アラブ風の静かな舞曲。その雰囲気を引き継ぐように、リトルネロもまた静かに、切れ切れに出現する。
【第5舞曲 コモド】
「非常に原始的な舞曲でどこに由来するとも言えない」とバルトークが述べている。わずかに盛り上がって終わるが、そのリズムなどは終曲への序奏としての役割が大きい。
【終曲 アレグロ】
第5舞曲のリズムで弦楽器が低弦から4度間隔で積み重なっていくと、金管楽器が合い手を入れるように登場し、その後、各舞曲やリトルネロが次々と再帰してくる。最後は第3舞曲のテーマから派生した動機で華々しく曲を閉じる。
ドヴォルザーク:交響曲第8番 ト長調 作品88
【第1楽章 アレグロ コン ブリオ ト長調 4分の4拍子】
冒頭は、チェロ・クラリネット・ファゴット・ホルンが郷愁溢れるメロディーを奏でます。やがて、フルートによる夜明けを告げる鳥の声。すると、だんだん空が白み始め、楽しい一日が始まる、はずんだ気分になってきます。弦楽器の3連符にのってフルートとクラリネットがやや憂いをもったメロディーを奏でると、次に、オーボエ・クラリネットが喜びのメロディーを歌います。冒頭のメロディーが再現された後、これまで聞こえてきた様々なメロディーが現れては展開されていきます。ヴィオラが喜びのメロディーを奏でる下でチェロとコントラバスがピチカートではずんだ気分を盛り上げ、フルートが楽しげに小鳥たちの会話を聞かせてくれます。様々な楽器によって気分が高揚した先で、冒頭のメロディーがトランペットで高らかに奏でられます。思いが溢れ出てしまったかのように…。華やかな全奏で1楽章は終わります。
【第2楽章 アダージョ ハ短調 4分の2拍子】
秋の黄昏。小麦畑。金色の景色の中に古城が浮かび上がり、弦楽合奏で古の騎士の物語を語り始めます。やがて夜の帳が下り、フルートや弦楽器で奏でるナイチンゲールの鳴きかわす声が聞こえる中、クラリネットがほの暗いメロディーを紡ぎ始めます。どこからかハ長調の音階が上から下りてくるのが聞こえてきます。なんだか懐かしい民族楽器のツィンバロムのよう…。その中で、フルートとオーボエが幸せな昔話を語り始めます。続いてヴァイオリンがソロで懐かしい思いを切なく歌うと、次第に気分が高揚し、古き良き栄光の時代への思いを全奏で歌い上げます。夜が明けていくと、次第に幻影は薄れ、静かに2楽章は終わります。
【第3楽章 アレグレット グラチオーソ ト短調 8分の3拍子】
町ではおめかしをした男女が夜会に集い、チェコのワルツを踊り明かします。見交わす眼・仕草で想いの丈を伝える踊り。切ないヴァイオリンのメロディー。指揮の今村先生曰く「チェコのワルツはちょっと遅い」。演奏してみると、不思議です。切なさが倍増!でした。村でも広場では踊り明かす男女が集まってきます。素朴で明るい木管のメロディー。弦楽器の刻むリズムから、どんなステップで踊るんだろうなあって想像するとウキウキします。
【第4楽章 アレグロ マ ノン トロッポ ト長調 4分の2拍子】
トランペットのファンファーレと共に4楽章が始まります。まず、チェロがこの楽章の変奏のテーマを奏でます。牧歌的な雰囲気を持つこのテーマは、様々な楽器・速さ・音型で変奏されますが、みんな村祭りで浮かれている気分のようです。中間部では童歌の「黄金虫はお金持ちだ」とよく似たテーマが出てきます。このテーマが変奏されていくと一層気分が盛り上がっていきます。それにしても、このテーマの土臭さはドヴォルザークならではですね。初めのテーマをチェロが再現した後、このテーマが優しい子守唄のように変奏されます。しかし、子供たちが寝静まった後、祭りは一気に最高潮に盛り上がり、終演を迎えます。
流浪の果てに 高荻 泉
バルトークが、右派勢力の台頭によってナチス・ドイツへ傾斜していった祖国ハンガリーを離れ、アメリカ合衆国へと亡命するのは1940年10月のことであった。
ナチス政権が成立した当初、1933年2月半ばに、バルトークはフランクフルトで指揮者ハンス・ロスバウトの下でピアノ協奏曲第2番をドイツ初演している。しかしやがて、ドイツの文化政策はバルトークのような現代的な音楽に対し非難の矛先を向けるようになる。1935年にロスバウトは、バルトークの作品を定期的に演奏するのは難しくなったとバルトーク宛の手紙に書いている。演奏家や放送局もバルトーク作品を取り上げることを躊躇し、ロスバウト自身も「激しい攻撃」を受けかねない世相となったのである。ナチ寄りの批評家、パウル・チェールリヒは、ヒンデミットの批判記事の中で彼と同様非難されるべき作曲家としてベルク、オネゲル、そしてバルトークの名を挙げている。ヨーロッパにおいてバルトークの居場所はなくなりつつあった。
故国ハンガリーを離れたバルトークにとって、アメリカでの生活はあまり居心地の良いものではなかったようである。彼のアメリカ滞在を援助したアガサ・ファセットは、バルトークにとってニューヨークの喧騒は耐えられないものであったと書いている。また、仕事も大学の任期制の研究員のポストだけで、経済的にも恵まれているとは言えない状態が続いた。クーセヴィツキーの依頼で名作、『管弦楽のための協奏曲』などの名作を著したが、彼はアメリカに来て5年後、1945年9月に慢性骨髄性白血病が悪化して亡くなった。まだ64歳であった。
漂泊の果てに異国で貧困のうちに亡くなった悲劇の天才作曲家のように見えるバルトークではあるが、哲学者のコリン・ウィルソンによれば、バルトークは「うぬぼれやで、甘えん坊で、完全に自己中心的」な人物ということになるらしい。ウィルソンは先のファセットの著書を紹介しながら「ミス・ファセットという人が、少々腹立たしくなるほど素朴だったかもしれないという可能性を考慮に入れても、やはり、バルトークは、概して、甘えっ子のような態度をとっていたようである」と述べる。なるほどファセットの著書を読むと、バルトークは相当に扱いづらそうだ。同書の中で、バルトークが、ファセットの別荘の家政婦にパンの焼き方を説教する場面があるのだが、こんな具合である。「パン作りは払暁でなければならない。夜の闇がまだ幾分あたりに漂い、新しい日の光に混ざり合う夜明けに、病院を思わせる陶器やエナメルの冷やかさのない台所で作らなければならないのだ。…深い長い木製のパン鉢、陶器でなく木でできたパン鉢で作らなくてはならないのだ」。パンぐらい自由に焼かせてやれよ。
音楽学者のオシエーも、バルトークがアメリカ人のことを「牛のように反芻する人間…しょっちゅうガムを噛んでいる人」と評していたと述べている。実に失礼な奴である。
そんな偏屈な性格から「彼は意地悪な運命が自分の一生を台無しにし、全世界がその陰謀の片棒を担いでいるように、好んで振る舞った」とウィルソンは言う。なるほど世界が自分を中心に回っているような人ですな。それともあまりに正直すぎたのか。
バルトークはニューヨークの墓地に葬られたが、ハンガリーの共産主義体制が崩壊した1988年の7月、指揮者のショルティらの尽力で、骸が祖国に移送され、ブダペストに改めて埋葬された。没後43年を経てバルトークの亡命生活は終わりを告げたのである。