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第66回定期演奏会

2015年1月11日

愛知県芸術劇場コンサートホール

愛知県 名古屋市東区

ラフマニノフ 交響曲第3番 
チャイコフスキー 「くるみ割り人形」抜粋 
モーツァルト 「魔笛」序曲
指揮:髙谷 光信

曲紹介

ラフマニノフ:交響曲 第3番

フィギュアスケート(Mちゃん)でよく口にするピアノ協奏曲を作曲したのは、ラフマニノフです。彼の作曲した本交響曲は、リズムカルな中にも美しい旋律が散りばめられている名曲です。


チャイコフスキー:バレエ音楽「くるみ割り人形」抜粋

「花のワルツ」をはじめ、魅力あふれる宝石箱のようなバレエ音楽から小曲を厳選してお届けします。様々な楽器が織りなすファンタジーをお楽しみください。


モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲

モーツァルト晩年の最後のオペラ。短い人生を駆け抜け送り抜いた、華やかで不思議な歌……どこからか魔法の笛の音が聞こえてきます。

指揮 高谷 光信(たかや みつのぶ)

Mitsunobu TAKAYA

京都市立堀川高等学校音楽科(現・京都堀川音楽高等学校)を経て大阪音楽大学音楽学部器楽学科卒業。キエフ国立チャイコフスキー音楽院指揮科首席卒業。また国家演奏家資格、ディプロマを最優秀の成績で取得。指揮を故小林一男、服部洋一、田中一嘉、渡邊一正、辻井清幸、V.プラコフ、故E.ドゥーシェンコ、N.スカーチに師事。

2003年、キエフ国立チャイコフスキー音楽院卒業時、ウクライナ・チェルニーヒフフィルハーモニー交響楽団に客演指揮者として招かれ、ウクライナにてプロデビューを果たす。同楽団客演指揮者(2003~2006)第2指揮者(2006~2012)常任指揮者(2012.7~)現在も定期演奏会や各国の音楽祭、マスターコースなどで共演を続けている。

また、同楽団の招聘により「ホロヴィッツ国際ピアノマスタークラス」「シベリア国際音楽祭」「ウクライナ国際音楽祭〜キエフの春の音楽の夕べ」ウクライナを代表する国際音楽祭である「バルケーヴィッチ国際音楽祭」などに出演し、「若い音楽家やソリストを支え音楽祭を成功に導いた」(Kiev Post)と高く評価される。また2010年より「ウクライナ国際マスタークラス指揮・ヴァイオリン・ピアノ部門」の企画・運営員・指揮者を務め、世界中の若きソリストと共演する模様は全国放送されている。

現在までに東京混声合唱団、セントラル愛知交響楽団、愛知室内オーケストラ、ナゴヤディレクターズバンド、大阪交響楽団、大阪市音楽団、エレマン室内オーケストラ、瀬戸フィルハーモニー交響楽団、東京室内オーケストラ、エウフォニカ交響楽団、神戸市室内合奏団、ブラスパラダイス大阪など、数多くのオーケストラ、吹奏楽団、合唱団を指揮。

ヴァイオリニストのE.ケシャーエヴァ、豊嶋泰嗣、沼田園子、ピアニストの近藤嘉宏、樋口裕、漆原啓子、宝彩栄、幾本二太、A.イエメッツ、D.オニシチェンコ、テノール歌手の秋川雅史、平尾勇一郎、松本薫平、竹内直紀、小餅谷哲男、バリトン田中勉、ウズベキスタン音楽家「SHODI」など国内外の著名な演奏家と多数共演。

現在ウクライナ・チェルニーヒフフィルハーモニー交響楽団常任指揮者。名古屋芸術大学音楽学部、武庫川女子大学音楽学部、京都市立芸術大学音楽学部教育研究会、各非常勤講師。みやこオペラ京都共同代表。

第16回京都府文化賞「奨励賞」受賞。

2012年7月ウクライナチェルニーヒフ州文化功労賞受賞。

オフィシャルホームページ:http://m-takaya.com/

ラフマニノフ交響曲第3番に寄せて高谷 光信

〜S.ラフマニノフ交響曲第3番〜この交響曲への想いをここに記したいと思う。

何故、S.ラフマニノフがこのシンフォニーを作曲し、このロマンチシズムの音楽を強烈な音の羅列をもって書き上げたのかと私は考えずにはいられない。1935年作曲当時のロシアはボリシェビキ派(多数派)がメンシェビキ派(少数派)を政治的に制圧し一党独裁共産主義の時代に突入した。その後1980年代後半に起こるペレストロイカ(政治体制改革運動)を迎える遥か55年も前にこの作品は作成された。ラフマニノフは変革の渦中を生きた作曲家であった。共産主義に反抗して故郷を去ったと言われる説も存在するが、今となっては確かめる術を持ち合わせていない。しかし、ラフマニノフと共に過ごした音楽家たちの証言からは誰よりも彼自身が望郷の念を強めていたことは想像に難くない。

この作品は彼自身の人生の儚さや喜びが投影されている。それは社会の縮図そのものである。何故人が争い、殺し合い、戦争をするのかと訴えかけてくるようである。2014年から続いているウクライナとロシアの内戦のことを思わずにはいられない。

全てを知っているかのような「神の啓示」によってSymphonyは始まる。まず、ラフマニノフ自身がテーマとなり「さまよう若者の歌」が第1主題となって語り出す。その後、様々な幻想が目前に広がり鋭く若者の心を傷つけながら音楽が展開されてゆく。第2楽章ではロシアの教会を守る厳かな「鐘の音」によって心が洗われ、第3楽章では苦悩の先にある喜びへと到達しようと高揚してゆくのである。

この作品の持つ力はもはや個人の妄想や価値観では語りきることはできない。多くの作曲家がLast Symphonyに捧げた想いとは、今を生きる人々へのメッセージであり、忠告なのかもしれない。この交響曲第3番もまた大きな警鐘を鳴らしているように思う。

苦悩から喜びへ向かう絶対的なテーマは、キエフ国立チャイコフスキー音楽院時代に、故E.V.ドゥーシェンコ教授がいつも言っていた「人生とは喜びに向かうべきである」という言葉を思い出させる。ウクライナの子どもたちの劇場建設に尽力された先生らしい「夢と希望」が溢れる言葉だ。第3番交響曲の本質はラフマニノフの「ロシアへの愛と平和への祈り」が込められた作品に他ならない。

2015年1月、今ウクライナとロシアが平和になって欲しいと願いを込めて。

名古屋シンフォニア管弦楽団について
Nagoya Sinfonia Orchestra
1982年に名古屋を中心に活動する音楽愛好家により結成されました。その後、地元名古屋はもちろんより全国各地から来た転勤者も多く加わり、現在では、約90名規模のオーケストラに成長しています。年2回の定期演奏会も中断することなく開催し続け、2012年に30周年を迎えることができました。
練習は原則として毎週日曜日に、厳しい中にも楽しく充実感を得られる内容を心がけています。また多くの先生方より、演奏技術、音楽論、さらに人生論(?)までご指導をいただきながら活動しております。舞台から溢れる音楽を愛する喜び、そういったものがお客様に伝わり共に楽しめるステージになれば幸いです。

モーツァルト:歌劇「魔笛」K.620 序曲

時代を超え、世界中の人々にも多大な影響を与え続けているモーツァルト。35年という短い時間の中で生きたモーツァルトの人生に、みなさんは何を思うでしょうか?

◇W. A. Mozart

幼少より神童と言われ、国内外での演奏活動や数多くの作曲をして華々しい活躍をした一方、波乱に満ち、浪費家で晩年は借金を繰り返したと言われています。ザルツブルク大司教との対立や、旅先での母親の死。失恋相手の妹コンスタンツェと結婚し、父親にすぐ手紙を書いたほど喜んだ第1子は、預け先で帰郷している間に亡くなり、6人の子のうち成人したのは2人だけでした(かわいそう)。

◇The Magic Flute

「魔笛」は、亡くなる1791年に書かれた歌劇。試練を乗り越えて結ばれる恋の物語で、この中で歌われる曲はテレビや映画などに使われてきました。感情をそのまま曲にしたような、とても自然で遊び心たっぷりな旋律。当時の音楽形式や色々な制限から解放された晩年の、自由で純粋な音楽。初演から今も、絶大な人気を誇っています。

◇Clarinet

クラリネットは、モーツァルトの時代には新しい楽器でした(今とは少し違うけれど)。晩年の交響曲や「魔笛」でもクラリネットが効果的に使われていて、奏者としては嬉しい限り。あの有名なクラリネット協奏曲が書かれたのも、亡くなる2か月前のことでした。

モーツァルトや、彼を取り巻く人物の様々なドラマ。それぞれの人生や時代背景にも複雑な思いを巡らせつつ、シンフォニアのみんなも大好きで、聴くのも演奏するのも楽しい「魔笛」序曲を、今日もノリノリで演奏したいと思います。 そうそう!余談ですが「モーツァルト」のチョコレートリキュールは、最終工程でモーツァルトの曲を聴かせながら貯蔵させているそうですよ!

チャイコフスキー:バレエ音楽「くるみ割り人形」作品71 (抜粋)

この作品はチャイコフスキー晩年の最も円熟した時期のものです。メルヘン的な雰囲気の内容ですが、音楽的にはそれまでのバレエ作品をしのぐ傑作と評価されるほどです。全曲を通じて彼独特の暗い影は見られず、終始明るい、長調を主にした和やかな雰囲気に満ち溢れています。

【あらすじ】

クリスマスイブのパーティーで、少女クララは、不思議で不気味なドロッセルマイヤーおじさんからくるみ割り人形を贈られますが、兄のフリッツに壊されてしまいます。 夜、家族が寝静まった後、壊れた人形のことが気になり居間に忍んでいくクララ。 その時、時計が零時を告げ、ハツカネズミの大群が押し寄せ、くるみ割り人形率いるおもちゃの兵隊とネズミたちとの戦争が始まります。ハツカネズミの王様に襲われたくるみ割り人形を、クララがスリッパを投げてあわや救い、ネズミたちは退散。くるみ割り人形は凛々しい王子に変身し、助けてもらったお礼に彼女をお菓子の国に誘います。 お菓子の国では歓迎の宴が繰り広げられ、夢のようなひとときを過ごすクララ。しかしやがて、楽しい夢も終わりを告げます。 クララが目を覚ますと、そこは居間のソファーの上。不思議な出来事はクリスマスイブの夢だったのでしょうか。それとも…。

■情景・クリスマスツリー

パーティーの準備をしている光景です。これから始まる不思議な物語を暗示するような雰囲気を醸し出しています。ティンパニの独奏に続いて子供たちが登場し、次の行進曲に移って行きます。

■行進曲

子供たちがクリスマスツリーの周りを巡って踊ります。歯切れのよい軽快なこの行進曲は、子供たちの無邪気さと無邪気さをよく表しています。

■こんぺい糖の精の踊り

弦楽器のピチカートにのって、チェレスタが旋律を奏でます。こんぺい糖の精の甘美な雰囲気を出すのに、澄んだ神秘的な響きのチェレスタの効果は見事です。

■ロシアの踊り(トレパック)

ロシア農民の踊りです。エネルギッシュな跳躍を見せる力強い旋律が繰り返されます。後半はテンポを上げ、旋風のように圧倒的な迫力で一気に曲が終わります。

■アラビアの踊り

東洋的でエキゾチックな旋律にのって踊ります。グルジア地方の子守唄を取り入れたと言われています。

■子供たちのギャロップ

軽やかなギャロップの音楽に合わせて子供たちが踊ります。その後テンポが変わり堂々としたメヌエットになると、仮装した親たちが登場します。

■あし笛の踊り

アーモンド菓子の女羊飼いがあし笛を吹いて踊ります。弦楽器のピチカートの伴奏に乗って3本のフルートが奏でるメロディはあまりにも有名です。

■花のワルツ

こんぺい糖の精の侍女たちが華麗にワルツを踊ります。ハープのカデンツァに続き、魅力的なメロディが次々と出てきます。最後はテンポもアップして、華麗に終わります。

ラフマニノフ:交響曲第3番イ短調 作品44 (1936年)

1917年、十月革命のロシアを後にし、北欧へ演奏旅行に出かけたまま二度とロシアの地を踏むことのなかったラフマニノフ。1918年にアメリカに渡るが、多忙な演奏活動や、故郷を喪失したことによる作曲意欲の衰えのため、ロシア出国後の作曲活動は極めて低調になった。 それでも、1931年になるとスイスのルツェルン湖畔に別荘を建て、ヨーロッパでの生活の拠点とした。(今回の演奏会プログラムの表紙は、このルツェルン湖をイメージしたもの。)交響曲第3番はここで作曲された。交響曲第2番からほぼ30年ぶりの最後の交響曲。遠くロシアを離れ、祖国への望郷の想いが濃い曲である。初演は1936年、ストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団の演奏によって行われた。 甘く切ない旋律を朗々と歌い上げるロシア時代の作風からは離れ、ラフマニノフ作品としては比較的リズミカルな動機が追究されている。この曲は3楽章制を採用しているが、第2楽章はスケルツォ的な性格の中間部を有するため、第2・3楽章を1つに圧縮した形とも解釈できる。

【第1楽章】 Lento - Allegro moderato

わずか4小節の序奏では、クラリネット、ホルン、チェロによって霧が立ち込めるような調べが奏でられ、その後オーケストラ全体によって力強いモチーフが示される。序奏の主題は再現部冒頭だけでなく、続く第2・第3楽章の開始部分や各楽章の経過部でも形を変えて現れ、全曲に統一感を与えている。オーボエが歌う物憂げな第1主題は、ヴァイオリンに短く引き継がれ、次にチェロによって第2主題が朗々と奏でられる。展開部では壮大な旋律と激しく移り変わるフレーズが緩急をつけて現れる。再現部で郷愁感は一層深まる。遥かなる呼び声、遠いあの日。

【第2楽章】 Adagio ma non troppo - Allegro vivace

牧歌的な雰囲気の第1部は緩徐楽章に相当する部分。先行楽章の余韻を引きずりながら、ハープの響きに乗ってホルンが歌う1つめの主題に続き、ヴァイオリンソロによる2つめの甘美な旋律を基に曲は進められる。陽が落ちて夕焼けが色褪せ、やがて夜の帳が下りると空には満天の星。中間部ではロシア舞曲レスギンカを思い起こさせる、激しいリズムを持った荒々しい楽想に転じる。活気あふれたスケルツォが展開されたのち、第3部がコーダ的に姿を見せて楽章を閉じる。

【第3楽章】 Allegro

ラフマニノフ特有のリズムの躍動感と輝きに満ちたフィナーレ。第1楽章の序奏と関連深い導入が確信を持って現れる。これに続いて弦楽器による活発な主題が提示される。この後いくつかの副主題が幻のように現れては消える。やがて短い断定的なテーマに続き展開部に入る。展開部ではフーガが成長しながらソナタ風に展開してゆく。簡潔な再現部を経て、穏やかな満たされた旋律に続くが、やがて運命の動機が不気味に響く。穏やかな日々に、無徳貫な車輪の足音が遠くで聞こえる。コーダに入り、次第にテンポを上げながら圧倒的な意志の力を伴って全曲を締めくくる。

INTERVIEW
2014年10月12日
今回、指揮をしていただく高谷先生にお話を伺いました


♪ 音楽はいつごろ始められたのですか。

母親が大阪芸術大学のピアノ科出身で、3歳からピアノを始めました。でも、そのままピアノの道に進む感じではなかったです。

♪ トランペットを始められたのは。

小学校6年生からです。当時は人前で話すことがとても苦手で、緊張して何も言えなくなるのです。両親が心配して、何かやりたいことをやらせよう、ということになりました。やりたいことは特になかったのですが、たまたまテレビで『宇宙戦艦ヤマト』を見ていて、古代君がある惑星でトランペットを吹いているシーンが、とてもかっこいいなと思いました。それで「トランペット」と何となく答えたことがきっかけで始めました。 トランペットの練習を通して、様々なことを学びました。例えば鏡を見ながらフォームの確認をしたり、良くなる方法について考えるわけです。それは、結果的に自分と向き合う事になりました。自分自身を成長させることに繋がっていったと今では感じています。 また音楽を始めてから、人前で話すことが平気になりました。私は音楽と出会って、自分らしさを手に入れたと言えると思います。今指揮者となり、【音楽の力】について良く考えます。少年時代の私の経験は「音楽は人の心を豊かにすることができるのではないか」と気付かせてくれたのです。


♪ 指揮者を志すようになったのはいつごろですか。

高校1学年の夏には「指揮者になる」と言っていました。


♪ きっかけになった出来事があったのですか。

1年生の時、先輩に当たる佐渡裕さんが堀川高校音楽科に来て下さり「キャンディード序曲」を練習会で振って下さったのです。この曲は、冒頭にトランペットのソロがあるので、リハーサルではいつも上手くいっていました。佐渡さんがいらっしゃる前日、高校の恩師藏野雅彦先生に「佐渡さんがどう振っても、いつでも吹けるようにしておけ。」と言われ、心構えをしていました。そして当日、佐渡さんは指揮台に飛び乗るや否や、間髪入れず振り始めたのです。結果、全部外してしまって。うつむいてしまいました。でもその時、佐渡さんはおっきな声で「その心意気よし!」と指さして下さったのです。それはそれは強烈な言葉であり、指揮者を志すきっかけになったのです。


♪ 印象深い出来事ですね。

自分が指揮者の立場になりあの時を思い出すと、「きちんと吹けてないけど、気持ちは届いた。次がんばれよ。」というエールを佐渡さんからいただいたように思います。あの言葉は今でも「私の宝物」です。指揮者の発する一言は、私もそうであったように、プレイヤーの人生を左右することがあります。だからこそ指揮者は、【心の仕事】という部分を担っていると思います。大変責任のある魅力的な仕事だと思っています。


♪ 指揮者とは?

私はいつも「一番目立つ裏方」と答えます。演奏して下さる皆さんがいて指揮者が存在するわけですから。そして、「作品に対する謙虚さ」と「平常心」を持った指揮者になりたいといつも心がけています。


「もうかりまっか?」「ぼちぼちでんな」 高荻 泉

天才にはなぜか貧困のイメージが付きまとう。経済的な困難にもめげず偉大な業績を挙げたり、素晴らしい傑作を生み出したなんていう話を聞くと、「恵まれない環境で頑張ったんだ。うんうん」なんて勝手に「頑張った大賞」なんかをあげたくなってしまうのかもしれない。

1791年12月5日、天才作曲家モーツァルトが世を去った。死に瀕していた彼も経済的には恵まれていなかったように語られることが多い。特にそのイメージを我々に強烈に刷り込んだのは、名匠ミロス・フォアマン監督の映画『アマデウス』(1984年)ではなかったか。映画の終盤、モーツァルトが息を引き取ったあと、絶筆となった『レクイエム』の「ラクリモーサ(涙の日)」をバックにモーツァルトの粗末な木の棺を乗せた馬車が共同墓地へと向かう光景が描かれる。わずかな参列者も見送りは町外れの城門まで。誰の立会もなく共同墓地の係員が棺を傾けると、棺の底が開いて、モーツァルトの遺体を納めた麻袋が集団埋葬用の大きな墓穴に落とされ、係員がシャベルで消毒用の石灰を撒く。使いまわしできる棺だよ、なんだかなあなんて思ったものである。

さて、この時、モーツァルトの妻、コンスタンツェが葬儀に支払った費用は、音楽学者ロビンズ・ランドンによれば、教区費4フロリン36クロイツァー、教会費が4フロリン20クロイツァー、棺を運ぶ馬車のチャーター代が3グルデンとある。ものの本によると「フロリン」は、ドイツ、オーストリアでは、「グルデン」とも呼ばれ、60クロイツァーは1グルデンに相当した。そうすると、コンスタンツェが葬式にかけた総額ははじめて11グルデンと56クロイツァーということになる。なるほど12グルデンくらいの葬式だったんだなというのは分かったが、今だったら一体幾らだろうか。ザルツブルクのモーツァルテウム音楽演劇大学の学長だったパウアーの興味深い研究がある。彼によれば、当時のオーストリアで一般的に流通していた20クロイツァー硬貨1枚で、ウィーンでは軽い昼食が食べられたらしい。そこから、パウアーは、20クロイツァーを(2006年のレートで)10ユーロ程度であるとはじき出している。手許にある『地球の歩き方 2011〜2012年版』を眺めてみると、ウィーンの名店、フィグルミュラーのシュニッツェル(ウィーン風カツレツ)が12.90ユーロとあるから、なるほどこんなものか。ちなみに2006年の1ユーロの終値は157円ほど。150円で計算すると、モーツァルトの葬儀費用約12グルデンは360ユーロ、即ち54,000円程度ということになる。確かにお値打ちと言えなくもない額だ。

ところで、1788年に宮廷音楽家のポストに就いたモーツァルトは、年額800グルデンの給与をもらっていた。これだけで2万4千ユーロ(360万円)である。先のパウアーは、当時のウィーンでは4人家族に必要な生活費は年500グルデン程度と試算している。すると、多少贅沢をしてもモーツァルトの生活は余裕の筈である。パウアーによれば、モーツァルトには、この宮廷音楽家としての給与以外にも、依頼作曲の報酬(オペラ1曲あたり450〜900グルデン)、ピアノ演奏や指揮のギャラ、更には音楽の家庭教師の月謝など相当額の収入があった。多くの先行研究から推計されるウィーン時代の彼の年収は平均4,500グルデン(13万5千ユーロ=2,025万円)に達する。結構稼いでるね。パウアーは言う。「貧困にあえぐモーツァルトの姿は空想が生み出したものであり、最終的に忘れ去られるべきものであろう」。

ただ、先述したようにモーツァルトの葬儀が簡素だったことは事実である。金がないわけではないのになぜだ。モーツァルトについての著書もある医師のノイマイヤーによると、18世紀後半オーストリア皇帝であったヨーゼフ2世はいわゆる啓蒙君主として農奴解放や産業振興、対外政策の強化など近代化を図る一方、華美な宮廷行事の簡素化にも乗り出し、これが市民の葬儀などにも適用されたという。埋葬に関する規定は、もともと衛生管理的な発想から公布されたようだが、埋葬における華美な儀式や立会は行われず、共同墓への埋葬も一般的なことであった。埋葬の立会も記録もなかったことで、結局モーツァルトの正確な埋葬場所は分からなくなった。現在、ウィーンのザンクト・マルクス墓地にも中央墓地にも彼の名を刻んだ石碑はあるにはあるが、そのどちらにもご本人は埋まっていない。

チラシ表
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