名古屋シンフォニア管弦楽団
Nagoya Sinfonia Orchestra
曲紹介
リャードフ:バーバ・ヤガー
「バーバ・ヤガー」は、ロシアで伝わる女魔法使い。なんとも奇妙な、鶏の足の上に乗っている小屋に住んでいます。暗い森の中、臼に乗って杵を持ち、ほうきで足跡を消しながら、飛び回っている様子が幻想的に描かれています。
伊福部 昭:交響譚詩
伊福部 昭は、「ダダダン、ダダダン、ダダダダダダダダン」というリズムが印象的な、ゴジラのテーマの作曲家として知られています。管弦楽曲「交響譚詩」は、日本の鉄骨をイメージさせる旋律等、あちこちに「和」の心を感じる、亡き兄に捧げる譚詩(バラード)です。
ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番
ショスタコーヴィチはソビエト政府の弾圧を受けながらこの曲を作曲しました。ベートーヴェンの第5交響曲と同じく「苦悩から歓喜に至る曲調」は、生命を正当化したい政府に絶賛されますが、作曲者の真意は……
指揮 新田 ユリ(にった ゆり)
Conductor : YURI NITTA
国立音楽大学卒業後桐朋学園大学ディプロマコース指揮科に進む。指揮を尾高忠明、小澤征爾、秋山和慶、小松一彦各氏に師事。1990年第40回ブザンソン国際青年指揮者コンクールファイナリスト。
1991年東京国際音楽コンクール指揮部門第2位。1991年に東京交響楽団を指揮してデビュー。その後も国内主要オーケストラへ客演。東京佼成ウインドオーケストラ、大阪市音楽団と共演、録音、またシエナ・ウインド・オーケストラ、東京吹奏楽団にも客演。オペラでは、横浜シティオペラ、大田区民オペラ協議会でモーツァルトの5大オペラ、「夕鶴」などを指揮。
2000年10月~2001年10月、文化庁芸術家在外研修員としてフィンランドに派遣され、音楽監督オスモ・ヴァンスカ氏のもとラハティ交響楽団で研修。フィンランド国立歌劇場とサヴォンリンナ音楽祭においても、オスモ・ヴァンスカ氏のアシスタントを務める。これまでにクオピオ交響楽団、ミッケリ市管弦楽団、ヨエンスー市管弦楽団、フィンランド海軍吹奏楽団、フィンランド国防軍吹奏楽団、ラ・テンペスタ、クリスチャンサン交響楽団などフィンランドはじめ北欧諸国へ客演を続けている。
2005年~2007年オウルンサロ音楽祭へ招聘、2006年、2013年リエクサ・ブラスウィーク客演。
2005年9月にフィンランド日本友好協会よりラムステッド基金奨学金を授与される。
2006年、2007年には東京新聞フォーラム「指揮者がみたフィンランド」にて講演と演奏のプロデュース・指揮を務めた。2007年4月より2009年3月まで中日新聞「エンタ目」に月1度コラムを執筆。2008年6月、2010年7月にNHK「名曲探偵アマデウス」に出演。シベリウスの「フィンランディア」「交響曲第2番」を特集した番組の解説を務める。日本シベリウス協会会長。国立音楽大学、桐朋学園大学、相愛大学、同志社女子大学などで後進の指導に当たっている。2015年1月より、一般社団法人愛知室内オーケストラ常任指揮者。
日本シベリウス協会会長。一般社団法人愛知室内オーケストラ常任指揮者。
〇公式ホームページ『森と湖の詩』 http://www.yuri-muusikko.com
名古屋シンフォニア管弦楽団について
Nagoya Sinfonia Orchestra
1982年に名古屋を中心に活動する音楽愛好家により結成されました。その後、地元名古屋はもちろんより全国各地から来た愛好者も多く加わり、現在では、約90名規模のオーケストラに成長しています。年2回の定期演奏会も中断することなく開催し続け、2012年に30周年を迎えることができました。
練習は原則として毎週日曜日に、厳しい中にも楽しく充実感を得られる内容を心がけています。また多くの先生方より、演奏技術、音楽論、さらに人生論(?)までご指導をいただきながら活動しております。舞台から溢れる音楽を愛する喜び、そういったものがお客様に伝わり共に楽しめるステージになれば幸いです。
リャードフ:バーバ・ヤガー
リャードフ(ロシア1855~1914年)は、ペテルブルク音楽院でリムスキー=コルサコフから作曲を学び、その後、母校の教授としてプロコフィエフなどを生徒に持つ。リャードフは作曲を始めたころから民話に魅せられていた。
「バーバ・ヤガー」はロシア民話の「麗しのワシリーサ」に登場するバーバ・ヤガーの様子を描写している。
バーバ・ヤガーとはロシア人にとって民話に不可欠の、古くから実在すると信じられてきた「悪い魔法使い」イメージの結晶であるが、そのイメージの中には、ロシアの深い森の「森の精霊」が投影されているという説がある。バーバ・ヤガーは人間を食べ大食いなのに痩せこけた老婆の姿をしている。移動するときは細長いすり鉢(臼)に乗り、右手に持ったすりこぎ(杵)で漕いで移動するのだが、地面のすぐ上の辺りに浮かんでふらふらと飛びすり鉢(臼)の底の部分を引きずってしまうため、左手に持った帯で移動した痕跡を消していくらしい。
曲はバーバ・ヤガーの吹く口笛の描写で始まる。それを合図に臼、杵、帯が登場し、ファゴットによってバーバ・ヤガーの主題が奏される。続いてバーバ・ヤガーの飛ぶ様子、森のざわめきが描写され、最後は急速に静まり、再びバーバ・ヤガーの口笛が奏されて終わる。
民話の中では、バーバ・ヤガーは通常は主人公の行く手に立ちふさがる最大の障害であり、主人公に無理難題をふっかける存在のようである。「麗しのワシリーサ」では、継母とその娘たちにいじめられるワシリーサが、彼女達の策略によりバーバ・ヤガーの家に行かされるのだが、ワシリーサがバーバ・ヤガーから言いつけられた仕事ができなかったらワシリーサを食べてしまうとバーバ・ヤガーから言われる。ワシリーサが亡くなった実母が残した魔法の人形の力を借りてその仕事を完璧にやり遂げると、バーバ・ヤガーは魔法で継母とその娘たちを焼き殺してしまい、その後ワシリーサは幸福を得る。
伊福部昭:交響譚詩 いふくべ あきら こうきょうたんし
今回、伊福部昭の代表作である交響譚詩を取り上げる。譚詩とは英語のバラード(ballade)で、舞踏と音楽が渾然一体となった形を指す。この曲は、快活な踊りが瞼に浮かぶ第一譚詩(アレグロ・カプリチオーソ)と、それとは対照的に深い悲しみや無念さを滲ませる第二譚詩(アンダンテ・ラプソディコ)からなる。伊福部の音楽はアイヌの音楽や日本民謡の影響を強く受けており、この作品にも民族音楽や労働歌、祭り囃子などを想起させる旋律が多い。
伊福部は1914年に北海道釧路市で生まれた。伊福部家は代々、鳥取の宇倍神社の神宮であったが、父・利三は警察官となって釧路に移り、昭が9歳の時に音更村の村長となる。音更の開拓地にはアイヌ民族が多く住んでおり、昭はアイヌの生活様式や音楽に自然と親しむようになった。また、音更には東北地方からの開拓民も多く、その民謡に触れる機会も多かったという。
昭は幼少時に音楽を愛好した二人の兄(宗夫、勲)の影響を受けて、ヴァイオリンやギターを演奏するようになるが、中学校入学を機に札幌に移ると、ストラビンスキーの『春の祭典』に深い感銘を受けて13歳頃から独学で作曲を始める。1932年には北海道帝国大学農学部林学実科に入学し、文武会管弦学部(北海道大学交響楽団の前身)のコンサートマスターとして活躍しながら、次兄らと『新音楽連盟』を結成して、海外から楽譜を取り寄せ演奏活動を行うようになる。
卒業後は道東の厚岸で林務官として働く傍ら作曲を続け、21歳で作曲した『日本狂詩曲』がロシア出身の作曲家が創設した『チェレプニン賞』の第一席を受賞する。驚くべきことに伊福部が生涯で作曲を師事したのは、受賞の翌年にチェレプニンが横浜に滞在している際に招かれて、個人レッスンを受けた時のみであった。その後、厚岸を離れて札幌の北大演習林に勤務しながら作曲を続け、1943年(29歳)に交響譚詩を書き上げた。
この曲は、前年に30歳で夭折した次兄・勲に捧げた作品で、スコアの冒頭には a Isao lfukube(†)と書かれている。
終戦を迎え、職を失った伊福部は作曲を生業にすべく1946年8月に上京したが、「奇しくもその時に、亡き兄に捧げたはなむけの交響譚詩がラジオから流れ、生誕の地を離れるに当たっての餞のようでもあり、また何か幸先が悪いとの思いもせぬではなかった。」と回想している。
東京では、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)講師として芥川也寸志、黛敏郎、石井真木らの指導にあたる一方で、のちに教科書となった『管絃楽法 上・下』を執筆したが、次第に学生が増えて親身の指導が難しくなり、1953年に大学を去った。その後は作曲家として映画音楽を手掛けることが多くなり、『ゴジラ』『ビルマの竪琴(1956年版)』『座頭市シリーズ』などで広く知られるようになる。1974年には東京音楽大学教授、1976年には同学長となって多くの音楽家を輩出した。2006年、91歳にて没。
北海道ではHBCラジオの日曜深夜のクロージングテーマとして、伊福部が作曲した『ウポポ』が放送開始の1952年から約50年間使われた。この作品は私にとって音楽の原風景である。
参考資料:伊福部昭綴る-伊福部昭論文・随筆集-ワイズ出版
伊福部昭公式ホームページ(暫定版)
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
ショスタコーヴィチが第5交響曲を作曲した1937年、ショスタコーヴィチ自身は大変な逆境の中にあった。1936年1月、ソ連共産党中央委員会の機関紙『プラウダ』は、「音楽のかわりに荒唐無稽」という表題の社説を掲載し、ショスタコーヴィチが1934年に発表し人気を博していたオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を、社会主義的内容に反し、モラルに欠いた楽曲として批判した。ショスタコーヴィチの楽曲は取り上げられることはなくなり、完成していた第4交響曲は初演を中止することを余儀なくされた。
また、第1次モスクワ裁判の死刑判決がおりる(1936年)など、大粛清の嵐が吹き荒れる中、ショスタコーヴィチのパトロンであったM.トウハチェフスキイ元帥が逮捕・処刑された。また、姉マリーヤの夫フレデリクスが強制収容所に送られ、姉もキルギス共和国の首都フルンゼに追放、妻ニーナの母ソフィヤ・ヴァルザルは収容所送りになり、義理の伯父M.コストリキンに至っては銃殺されるなど、近親者も粛清の対象となっていた。このような社会情勢下において、プラウダによる批判を浴びたショスタコーヴィチが粛清の対象となる可能性は、決して低いものではなかった。
加えて、1934年頃から不倫関係にあったエレーナ・コンスタンチノーフスカヤが、1936年に密告によって投獄される。その後、彼女はスペインに亡命してドキュメンタリー映画の制作者であるR.カルメンと結婚した。
このようないくつもの困難が重なった状況の中、ショスタコーヴィチは是が非でも第5交響曲によってソ連共産党からの信頼を回復し、粛清を免れなければならなかった。この楽曲にどのようなメッセージを込めたのかについては、現在でも多くの説が唱えられ、楽曲の解釈については主に次の3種類に分類することができる。
(A)プラウダ批判を受け入れ、その回答となる模範的な作品
(B)政治的・社会的な圧力に抵抗した、二重言語的な内容を持つ作品
(C)エレーナ・コンスタンチノーフスカヤとの恋愛の顛末を描いた作品
ともあれ、十月革命から20周年という、記念すべき年である1937年11月に行われた初演では、伝説的な大成功を収めた。ショスタコーヴィチ自身は、作品の内容について以下のように述べている。
「わたしの新しい作品は、抒情的英雄的交響曲といってもいいと思う。その基本的思想は、人間の波瀾の生涯とそれを乗りきる強いオプティミズムである。わたしはこの交響曲で、大きな内的、精神的苦悩にみちたかずかずの悲劇的な試練をへて、世界観としてのオプティミズムを信ずるようになることを示したいのである。ソ連作曲家同盟レニングラード支部で討論したさい、ある人たちは、この第五交響曲を自伝的作品と呼んでくれた。それはある程度まではあたっている。」(『文学新聞』1938年1月12日号:ショスタコーヴィチ自伝、P.86)
この作品が自伝的作品である、というのはおそらく疑いのない事実であろう。
1楽章で現れる悲劇的な第1主題はショスタコーヴィチの運命を暗示しているように思えるし、ヴァイオリンが瞑想的に奏でていた第2主題は展開部で3本のトランペットによる示威的な行進曲となり、理想社会を目指していた共産主義が権威主義に変質していく様を暗示しているように思える。最後のヴァイオリン独奏による第1主題の変奏は、ショスタコーヴィチの精神的な葛藤を表しているように思える。
2楽章は軽妙なスケルツォである。ユーモアにあふれた楽章であり、自身や社会に対する楽観的な想いを込めていると感じる。
3楽章は一転して沈痛なレクイエムである。革命の犠牲者や粛清の犠牲者に対する鎮魂の想いが、弦楽器の荘厳で悲劇的な響きから溢れてくる。
4楽章は、人生に対する回答であり、社会に対する回答であろう。主題は勇壮で力強い旋律であるが、そこには暗い陰が宿っている。D-mOLL(ニ短調)を基調に展開してきた4楽章は、ファンファーレに至ってD-dur(ニ長調)へと昇華する。この演出は、古代ギリシアの演劇において、ストーリーが縺れに縺れ解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ神が現れ、問題を万事解決してしまう、といういささか強引でご都合主義的な演出技法、デウス・エクス・マキナを想起させる。ファンファーレのクライマックスではDGB(シ♭ソ)というD-mOLL(ニ短調)のコードが出てきており、歓喜の中に深い苦悩を見いだせる。ここのB(シ♭)がH(シ)でないこと、そこにはとてつもなく大きな意味がありそうだ。
指揮者インタビュー 座談会 2016年5月22日
新田先生とシンフォニアのメンバーで、あれこれお話をさせていただきました
──新田先生とは、第61回、第65回演奏会で共演させていただき、今回で3度目となります。さらに、次回の第70回も引き続き共演させていただく機会をいただき、団員一同とても楽しみにしております。どうぞよろしくお願いいたします。
──最初に、1曲目のリャードフはどのような作曲家かお聞かせください。
リャードフは、ロシアの印象主義みたいな音の使い方をします。ロシアというと豪快に音を鳴らす作曲家が多いのですが、ちょっと毛色が違うタイプの人で、音色とか、昔のイメージ、というのをとっても大事にしていた、繊細な作曲家。よく演奏会で取り上げられる曲として、「8つのロシア民謡」「魔法にかけられた湖」「バーバ・ヤガー」の3つがあります。今回の「バーバ・ヤガー」は、私も初めて取り組むのですが、これらの曲の中では、シンプルで分かりやすい曲です。一つ一つの木管のトリルや、弦楽器の細かいリズムの書き方も何種類かパターンがあるので、その中で、怖さと森の風景を表していると思います。
──先生のご指導で細かく練習するに従い、情景が変わって聞こえてきました。
次に、シンフォニアとしては第5回演奏会以来、久しぶりの邦人作品となる伊福部昭についてお聞かせください。
メインの曲がショスタコーヴィチの第5番と先に決まっていたので、プログラムの組み合わせとして色々あると思ったのですが、最近、5番という作品の意味を考えるにつけ、自分たちの言葉が分かる同じ国の作曲家が何を言っているのか、もうちょっとちゃんと知りたいと思っていました。自分自身が札幌で育っていて、アイヌの文化に触れる環境で、伊福部さんもロシアの作曲家と縁があり、その人たちに認められたという経緯がある。このコンビネーションというのは、両方を深めるとお互いに相乗効果で、音楽がすごく立体的になってくるんじゃないかっていう意図もあって選びました。
──ショスタコーヴィチは、シンフォニアで、第35回に5番、第55回で12番、第65回で6番を演奏しています。
ショスタコーヴィチの5番をやるにあたっては、どうやってアプローチするかが決定的に大事。イデオロギーの事とか、色々あるんですけど、「だからそうだ」ではなくて、それを背景に持って、結局ショスタコーヴィチが音で何を表したかったのかな、というのを今回やりたいと思っています。あの時代に求められていた社会主義リアリズムに収まったね、というのが表面上に言われていることですが、本人が、「実は自分の自伝的な作品だ」と後で言っていました。じゃあ民主主義の中のロマンティシズムをやればいいんだなってちょっと思って。表向きは社会主義の形を置いて、きちっとした形式に則ってちゃんとやるけど、中身は色々物語を持っていた、当時のショスタコーヴィチの心情が全部音に書かれていると確信して、ちょっとやりすぎくらい、今回は表現主義でいこうと思っています。
ショスタコーヴィチの性格として、世間から自分を隔絶して孤立主義でいたのではなくて、すごく情報を仕入れて、世間のことを全部知った上で、じゃあ自分はどうしたらいいっていうのを神経質に考えていた人みたいなので、そういう意味でいうと、ものすごく現実的な解決をしていた人だと思うんですよ。そういう風に思うと、曲想的にものすごく色んなものを詰め込んでも大丈夫かなって思う。それに耐えられる曲だと思うんですね。
──最後に、第70回のマーラーの交響曲第2番「復活」に向けて、シンフォニアに求めるものを教えていただけますでしょうか。
共演する度に、印象として、オーケストラの力がついてきているなと思います。ソロが上手いとか、骨がいい音、いい音程、もちろんそれも大事なんですけど、何か起こった時に、どういう風に対処するというようなものがオーケストラの力だと思うんですよね、そういうノウハウが蓄積しているのを感じます。
もう少し育っていくといい部分として、周りの音を聞き、人の動きを見て作るということがあります。音をぽっと出した瞬間に、今、周りはこんな感じかなと共有する意識が、もう一呼吸早く、みなさんの中で、すーっと広がると、もっと早く音楽が変わっていくと思います。
ショスタコーヴィチは、4番5番を書いていた頃、シンフォニックな意味でマーラーの真似をしていた時期なんです。色んなものを取り入れるというか、その世界の同時に音を鳴らす感覚というのを入れていて、その流れで「復活」ができるので、すごく良いのですが、マーラーは、より、より、周りを見渡しながら演奏しないとできないっていう曲です。オーケストラとしての視野の広さと、演奏する瞬間に自分の中に入れる情報量の多さ、そこを今回、次回と継続して一緒に成長して行きたいなというのがすごくあります。
核の時代の音楽 高萩 泉
1992年、東宝の『ゴジラVSモスラ』が公開された折に収録されたインタビューで伊福部昭は面白いことを言っている。「動物が好きだからゴジラをやってきた」のだそうだ。へえ、伊福部にとっては破壊神ゴジラも“動物”なんだ。とはいっても、ゴジラはやっぱりペットにはできそうもない。
伊福部が音楽を担当した本多猪四郎監督作品『ゴジラ』(1954年)はまさに世相を反映した問題作と言ってよいだろう。水爆実験で太古の生物が蘇り、日本を襲うという基本的なプロットは、その年の3月に行われたビキニ環礁での水爆実験とそれに続く第五福竜丸事件に重なり合う。映画本編ではゴジラが徹底して核の象徴として描かれているのが分かる。ただのトカゲのお化けではない。この『ゴジラ』第1作では、ゴジラは東京を破壊する中で、いながらにして放射線をまき散らす、いわば歩く放射性物質として描かれているのである。
映画の終盤、ゴジラが東京を襲撃した翌日、焦土と化した東京の病院に次々とケガ人が運び込まれる中で、医師が子供の患者に放射線検知器を向ける。すると検知器が激しく反応し、それを見た医師が力なく首を振るという場面がある。核の恐怖を象徴した名シーンである。
当時の多くの日本人にとって、広島・長崎の惨禍はまだ記憶に新しいところ、そして東西冷戦を背景に、大国は新型核爆弾の開発競争にしのぎを削っていた。公開当時、読売新聞は『ゴジラ』を「特殊撮影だけがミソの珍品」なんて評している。当時の大新聞の評は総じて良くないが、ゴシップ紙のアサヒ芸能新聞だけは「“恐怖時代”の今日を象徴するものとして注目すべきである」(同年11月14日号)と褒めている。961万人も動員したのだから庶民の声はやはりこっちだろう。
伊福部昭にとっての核とはなんであったか。名作『交響譚詩』(1943年)は30歳の若さで急死した兄、勲の追悼のために書かれた。2003年に日本経済新聞に掲載されたインタビューによれば、勲は戦時中、東京・羽田にあった研究所で軍事用蛍光塗料やレントゲン板の開発に従事しており、身近に放射性物質がある環境だったという。また昭自身、戦争が激化する中で札幌の林業試験場で戦闘機に使う強化木の研究を命じられる。研究ではX線を使って木材が含む空気を検知するのだが、鉛のX線遮蔽衣を使えなかったという。「鉛は銃弾に使うために供出してしまった」と昭は言う。
日本の敗戦間もなく、昭は喀血して倒れ、1年間の療養生活を余儀なくされている。これが放射線障害であったかは定かではないのだが、伊福部昭自身が放射線被ばくというものを強く意識していることは事実である。伊福部は言う。「ゴジラが、科学技術で作られたものを壊して歩く姿を見るとかたき討ちをしてもらっている。そんな気がしてうれしくなって、必要以上にゴジラの音楽に情熱を燃やしてしまったのです」。
ゴジラは芹沢博士が開発したオキシジェン・デストロイヤーによって倒されるが、発明の悪用を恐れた芹沢はゴジラと運命を共にする。そこにはエスカレートする核軍拡への鋭い批判意識が感じられる。
その後の東宝特撮映画のいくつかの作品では、核を意識させる描写はあるのだが(例えば『モスラ』(1961年)-これも伊福部が音楽を付けている-に登場するインファント島はロリシカ国の水爆実験場である)、やがてゴジラの描写からは核が抜け落ちていく。子どもも楽しめる怪獣映画へと傾斜していったのだ。ゴジラが「核の脅威」として復活するのは1995年の『ゴジラVSデストロイア』(大河原孝夫監督)まで待たなければならない。
放射性物質を制御できなくなったゴジラが臨海副都心でメルトダウンするクライマックスに伊福部は『レクイエム』と題する美しい祈りの音楽を付けた。溶解するゴジラ、拡散する放射線。そして日本は…。これが伊福部にとって最後のゴジラ作品となった。

