名古屋シンフォニア管弦楽団
Nagoya Sinfonia Orchestra
指揮 井﨑 正浩(いざき まさひろ)
Masahiro Izaki
現在ハンガリーを拠点にヨーロッパ、そして日本各地で活躍を続けている指揮者。2007年よりハンガリー東部の都市・ソルノク市の音楽総監督に就任し、同市立交響楽団の芸術監督兼常任指揮者としての活動はもとより、同市に所属する音楽・文化団体及び施設を総括する重責を担っている。就任以来毎年ソルノク市立交響楽団の定期会員券が数日で完売していることからも、その反響と期待の大きさが伺えるだろう。2009年11月には同市立交響楽団及び合唱団、ハンガリー国立歌劇場ソリストらを率いた来日公演で大成功を収め、こうした活動から同年のNewsweek紙において「世界が尊敬する日本人~文化の壁を越え異国で輝く天才・鬼才・異才100人」の一人に選出され、また翌年発売の「音楽の友」誌3月号特集「いま、海外で活躍する日本人演奏家たち」においても海外で活躍する日本人演奏家として指揮者20名の中に選ばれ掲載される栄誉を得た。そして2015年1月にはソルノク市における長年に渡っての文化・芸術活動に対して、同市より権威ある「カボシヴァーリ・ジュラ賞」(ソルノク市文化功労賞)を授与され、同8月にはハンガリー政府・大統領名によって、民間人に与えられる最高栄誉である「金十字功労勲章」を授与された。現在ハンガリーに在住するただひとりの日本人指揮者として高い人気を誇るとともに、その実力が高く評価されている。
1995年第8回ハンガリー国営テレビ主催・ブダペスト国際指揮者コンクールで優勝。コンクール中の演奏を国立オペレッタ劇場総裁に認められ、同年同劇場でレハール作曲《メリー・ウィドウ≫を指揮しセンセーショナルなデビューを飾る。これまでハンガリーの主要オーケストラ及びハンガリー国立歌劇場に次々と客演し、ソムバトヘイ市・サヴァリア交響楽団の芸術監督兼常任指揮者、ブダペスト・オペレッタ劇場客演指揮者などを歴任してその名を確立し、2001年に“5つの竪琴国際音楽祭”委員会からは才能と実績あるアーティストに贈られる「リラ大賞」を授与されている。また近年では2012年10月にロシア・ナショナル管弦楽団(チャイコフスキー・ホール)を指揮してモスクワでのデビューを果たし、以降2013年3月にはベルリン交響楽団演奏会(ベルリンフィルハーモニー・ホール)への客演、2016年1月にプラハ室内オーケストラへの客演、11月にはデュッセルドルフ交響楽団への客演を行うなど、今後も国際的な活躍に期待が集まっている。
日本では1996年1月、東京シティ・フィルのニューイヤー・コンサートでのデビューを皮切りに、読売日本交響楽団、日本フィルハーモニー、東京フィルハーモニー、東京交響楽団、九州交響楽団、セントラル愛知交響楽団等の主要オーケストラに次々と連続客演して定評を得る一方で、新国立劇場「トスカ」公演、文化庁主催オペラガラコンサート、国際オペラコンクールin Shizuokaでの本選指揮、日本オペレッタ協会公演などにも活躍の場を広げており、この分野での手腕も高く評価されている。
作品の様式をきっちり押さえながら、ダイナミックなバトンテクニックや音楽構成力に加え、繊細な感情表現を併せ持つ演奏スタイルは常に定評があり、また交響管弦楽曲のみならず声楽を含む作品の演奏にも高い評価を得ており、フランシスコ・アライザ、アンドレア・ロスト、ルネ・コロら著名なオペラ歌手との共演も多く果たし、今後の更なる活躍に大きな期待が寄せられている。
福岡教育大学音楽科卒業、在学中に文部省派遣給費留学生に選出されオーストリア国立ウィーン古楽大学に学ぶ。東京学芸大学大学院作曲指揮法講座修了。これまでに指揮法を故安永武一郎、故遠藤雅古、伊藤栄一、湯浅勇治、故カール・エステルライヒヤー、ギュンター・トイリングの各氏に師事。日本指揮者協会・会員、東京指揮研究会・幹事、(株)コンサートイマジン所属アーティスト
■ホームページ
指揮者・井﨑正浩 on line(公式サイト)
http://www.izakimasahiro.com/index.html
コンサート・アーティストページ
名古屋シンフォニア管弦楽団について
Nagoya Sinfonia Orchestra
1982年に愛知県内のアマチュア音楽有志によって結成され、年2回の定期演奏会を続け、2017年に35周年の節目の年を迎えました。名古屋を拠点とするアマチュアオーケストラとしては老舗の部類に入り、2003年には愛知県芸術文化賞を受賞しました。現在では、結成当時のメンバーから学生に至るまで、年齢も職業も様々な約100名近くが集う大所帯となりました。
定期演奏会では、隠れた名曲や難曲、大編成の曲にも積極的に挑戦する特色ある選曲を心がけ、練習では指揮者はじめ経験豊富なプロの先生方からの熱心な指導の下、楽しくかつ真剣に音楽に取り組んでいます。私たちが演奏を楽しむだけでなく、お客様にも一緒に楽しんでいただけるような演奏会を目指して活動しています。
ベートーヴェン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68「田園」
この曲の初演は1808年12月22日、場所はウィーンのアン・デア・ウィーン劇場だった。演奏会は、この曲で始まり、後半にも新しい交響曲(第5番のこと)などを演奏した。当時38歳になったばかりの私は、自作の指揮にピアノ独奏に、と八面六臂の大活躍…のはずだった。
しかし、演奏会は散々だった。思い出したくもない。
そもそも曲目が多すぎた。十分にリハーサルをする時間もなく、案の定、本番では妙な音が何度も聞こえたそうだ。(私には、それを聞き分ける聴力は既になくなっていたが。)挙句の果てに、最後の曲では途中で演奏が混乱して止まってしまい、最初からやり直したのだ。それでも、凍える寒さの中、聴衆が最後まで席を立とうとしなかったのは、私の音楽に「力」があったからか。
当時、欧州ではナポレオンが勢力を拡大しており、ウィーンの人々も不安に浮足立っているようだった。私は、落ち着いた環境を求めて郊外に出て、森を歩き、野に咲く花に心をときめかせながら、「田園」の創作に励んだ。1807年暮れから翌年の秋にかけてのことだったと思う。
この曲では、自然をそのまま描写しようとしたのではない。音楽ならば、絵画とは別のアプローチで、自然の中に身を置いた時のあの幸せな気分をもっとうまく表現できる…そんな気持ちだった。だから、聴いていただければ解説など不要なのだが、ご来場の紳士淑女の皆さんには特別に、今日の見所・聴き所をご紹介しよう。
第1楽章「田舎に着いたときの愉快な感情の目覚め」
名古屋は暑いらしいね。しかし、冒頭のメロディを聴けば、すぐにウィーンの森にそよぐ爽やかな風を感じてもらえるはずだ。でなければ、暑い中わざわざ聴きに来てもらった甲斐がない。オーケストラには、曲の出だしから、思わずスキップしたくなるような気分を軽やかに表現してもらいたい。初め良ければすべて良し、なのだから。
第2楽章「小川のほとりの情景」
作曲するときによく歩いたハイリグンシュタツトの小径は、残念なことに今は舗装されてしまった。しかし、この曲を聴けば、ほら、私が感じた小川のせせらぎや森の囁き、鳥のさえずりが聞こえるだろう?うまく演奏すればホールにマイナスイオンが満ち溢れるように曲を書いたが、今日はどうだろうか?
第3楽章「田舎の人々の楽しい集い」~第4楽章「雷雨、嵐」~第5楽章「牧歌嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」
(この3つの楽章は続けて演奏される)
若い男女の踊りの輪に、酔った農夫が調子っぱずれの鼻歌を唄いながら加わろうとするが、足元が覚束ない…演奏中、危なっかしく聞こえる箇所があっても、それは、笑いの絶えない村の集いの様子をオーケストラがコミカルに表現したのかも知れぬ。楽譜に書き切れなかった私の気持ちを忖度(そんたく)したのならば、名古屋シンフォニア、恐るべし。
おや、ポツポツ来たか、と思う間もなく、嵐だ。むろん櫻井翔はいないが、満を持して登場したピッコロが叫び、トロンボーンが咆哮し、ティンパニが雷鳴を轟かせる。チェロとコントラバスの楽譜には、ベルリンフィルでも難しいであろう箇所もあるが、ぜひ風神雷神がごとき形相で弾いてくれたまえ!
‥やがて嵐は去り、雲間から再び光が差す。教会の鐘が聞こえる。人々は家から出て来て、空にかかった虹を見て感謝の祈りを捧げる・‥こんな平和で穏やかな光景が皆さんの心の中に浮かんだならば、オーケストラが私の想いを汲んで演奏してくれたということであろう。
終わり良ければすべて良し、である。名古屋シンフォニアの健闘を祈っているよ。
(2017年某日、霊媒師を介して作曲者にインタビュー。聴き手:チェロT.N.)
ワーグナー:舞台神聖祭典劇「パルジファル」より第1幕への前奏曲
リヒャルト・ワーグナー(1813~83年)は生涯のうちに、習作を除いて10本のオペラを作りましたが、その10作目がこの《パルジファル≫です。1877年から本格的な作曲に入り、1882年にバイロイト祝祭劇場で初演されました。他の作曲家の作品傾向と同様に、晩年の作曲ならではの複雑さや深みを感じさせる楽曲となっています。
≪パルジファル≫のストーリーは極めて宗教的要素の強いもので、キリスト処刑の際にその脇腹を突いたと言われる「聖槍」(せいそう)と、キリストが最後の晩餐に使い、かつ処刑時に流れた血を受けたとされる「聖杯」を巡り、純粋無垢の青年パルジファルが、魔導士クリングゾルに奪われた「聖槍」を取り返す物語です。
この作品は当初、ワーグナーのキリスト教的作品の集大成と解釈される事が多かったのですが、現在ではワーグナーの仏教(インド)への傾倒も分かってきており、昨今のオペラの演出では仏教的な表現を取り入れた演出もある様です。
今回演奏する第1幕への前奏曲は、静寂の深淵から立ち昇るような旋律「聖餐の動機」で始まります。そして、金管楽器による「聖杯の動機」、ファンファーレ風の「信仰の動機」が続いた後、次第に重い曲調となり苦悩が訪れますが、やがて、希望を示すかのように再び「聖杯の動機」が現れ、曲を閉じます。全体としては穏やかで控えめな雰囲気でありながら、ワーグナーの最後のオペラのエッセンスを凝縮した、荘厳な響きをお楽しみ下さい。
ワーグナー 歌劇「ローエングリン」より抜粋
・第1幕への前奏曲
・第3幕への前奏曲
・エルザの大聖堂への行列
≪ローエングリン≫は、ワーグナーの6作目のオペラで、1846~48年に作曲され、1850年に初演されました。歴史上大変な成功を収めた作品としても有名で、その影響を受けた人は、同世代の作曲家だけではありません。ワーグナーの熱心なファンでパトロンでもあったバイエルン国王ルートヴィヒ2世は、劇中に出て来る白鳥を模してノイシュバンシュタイン城を作らせ、また、ナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーは、この≪ローエングリン≫がきっかけでワーグナーに傾倒したとも言われています。
《ローエングリン≫のあらすじは次の通りです。
第1幕
舞台は、中世ヨーロッパのブラバント公国。ある時、領主ブラバント公が亡くなり、公国には長女のエルザ姫と、世継ぎの弟が残されます。しかし突然、その弟が行方不明になってしまい、次の領主の地位を狙うテルラムント伯爵と、その妻オルトルートは、エルザに弟殺しの罪を着せます。裁判になり、追い詰められたエルザは、夢で見た騎士に救いを求めました。すると奇跡が起こり、白鳥が曳く小舟に乗って騎士が現れたのです。騎士は自分の名前と素性を尋ねないことを条件に、姫の代理人となって決闘に臨みます。そして見事に伯爵を打ち負かし、姫の無実を証明します。
第2幕
決闘に敗れ失意のテルラムント伯爵に、オルトルートが巻返しの入れ知恵をして奮い立たせます。彼女は騎士の怪しげな素性を語り、エルザの不安を掻き立てますが、騎士に守られてエルザは礼拝堂への階段を上がっていきます。
第3幕
めでたく結ばれたエルザと騎士。しかし、オルトルートにそそのかされたエルザは、騎士の正体に疑いを抱くようになり、ついに名を尋ねてしまいます。騎士は、「パルツィヴァールの息子ローエングリンである」と告白し、掟にしたがって静かに去ってしまいます。白鳥に変えられていた弟が人間の姿に戻り国は救われましたが、エルザは悲しみのあまり息絶えます。
今回はこの≪ローエングリン≫の中から、以下の3曲を演奏します。(劇中での順番とは一部異なります。)
第1幕への前奏曲
8声に分かれたヴァイオリンによる崇高な和音と旋律で始まるこの曲は、聖杯が天使の群れに伴われて天から降りてくる様子を表しています。管楽器や低弦楽器が加わり旋律が低く厚くなっていった末のクライマックスでは、金管楽器により啓示的なファンファーレが奏されます。そして最後は、天使が天に戻っていくかのごとく、静かに終わります。
第3幕への前奏曲
エルザとローエングリンの結婚を祝福する音楽で、「喜びの動機」が華やかに奏でられます。オペラでは、この曲に続いて、有名な「婚礼の合唱」が歌われます。
エルザの大聖堂への行列
第2幕でエルザが結婚式のために大聖堂へ向かうときに演奏される曲です。結婚の歓び、結婚相手の素性がわからないことへの不安、弟の行方がわからない悲しみ、そうした感情が見事に表現されています。
堕ちた白鳥 高萩泉
「…我が父パルツィヴァールは聖杯の国の王冠を戴き、その騎士たる私はローエングリンという名なのです…」(『ローエングリン』第3幕より)
『ローエングリン』といえば、白鳥とともにやってきた騎士に、素性を聞かない約束で国を救ってもらったにもかかわらず、猜疑心が勝ってやっぱり名前を聞いてしまうダメなお姫様の話である。この話をヴァーグナーは上演時間4時間にも及ぶ壮大な3幕のロマンティックオペラに仕立て上げた。
かの風刺作家マーク・トウェインは、渡欧した際にマンハイムの歌劇場でこの作品に接している。彼によれば「ドシンという響き、太鼓の連打音、がたがたいう音、轟音、いやはやあきれんばかりであった。こうした音から来るひどく苦しく情け容赦のない痛みは、昔、私が歯医者に行った時のことを直ちに思い出させた」だそうな。座布団一枚。
『ローエングリン』が書かれたのは1848年、おりしもヨーロッパ全土で自由主義や民族主義の機運が高まり、各地で市民の蜂起が相次いで起こった時期である。この年、フランスでは2月革命が起こってオルレアン朝が倒され、第二共和制が樹立されている。当時ザクセンの首都ドレスデンの宮廷歌劇場の監督をしていたヴァーグナーも、劇場運営の自由化をザクセン王に嘆願している。彼は書き上げたばかりの『ローエングリン』をまずプロイセンの首都ベルリンで初演しようと目論み、これが拒絶されると、今度はザクセン王に申し出たのだが、劇場運営のことで睨まれていたこともあってこれもダメ。これでヴァーグナーはキレた。彼は当時ドレスデンに滞在していたロシア人の無政府主義者バクーニンに接触し、市民にこう呼びかけた。「…古い世界は壊滅し、新しい世界が生まれるのだ。なぜなら崇高な女神革命が嵐の翼に乗ってうなりを立てつつ到来するからだ」と。また、ミルトン・プレナーの伝えるところによれば、この時彼は革命家を支援する新聞社主のレッケルとともにひそかに手りゅう弾1500個を発注した。体制側から見たらもはやテロリストである。1849年5月、ついにドレスデンでも市民が蜂起し、ザクセン王を支援するプロイセン軍と武力衝突した。ヴァーグナー自身もこの戦いに身を投じた。この衝突は激しい市街戦へと発展し、多数の死者が出る惨事となった。やがて革命軍は鎮圧され、ヴァーグナーは指名手配されたため、彼はスイスへ逃亡する。結局彼自身はドイツを救う白鳥の騎士ではなかったのだな。
亡命先のスイスでは、身を寄せた先の実業家ヴェーゼンドンク氏の妻のマチルデと不倫するなど、次のステージでもヴァーグナーのやらかしぶりは半端ないのだが、これはまた別の話。
1850年8月、リストの尽力で初演された『ローエングリン』の上演におたずねもののヴァーグナーはもちろん出席することはできなかった。ヴァーグナー自身がやっとこの作品の上演を目にすることができたのは、1859年の恩赦の後、1861年5月、ヴィーンでの公演である。作曲から13年の歳月が流れていた。
ヴァーグナーの作品に惚れ込んだバイエルン王ルートヴィヒ2世は、後にヴァーグナーを呼び寄せ、国家財政が破綻しかねないほどの援助を彼に与えている。ルートヴィヒ2世は武官のパウル・フォン・タクシスにローエングリンの扮装をさせ、夜の湖水で人造の白鳥が引くボートに乗せてライトで照らし、それを眺めて悦に入っていたというから、これはこれで、なんだかなあ。ルートヴィヒ2世はさらには『ローエングリン』の世界を我が物にしようとノイシュヴァンシュタイン城の造営を手掛けることになる。このお城、主要な部屋はヴァーグナーのオペラの名場面の壁画で飾られ、洗面台の水栓が白鳥の首になっていたりとなんともゴージャス。ドイツ随一の観光地としても有名だからご存知の方も多いだろう。しかし、もちろんルートヴィヒ2世も白鳥の騎士にはなれなかった。