名古屋シンフォニア管弦楽団
Nagoya Sinfonia Orchestra
曲紹介
コープランド:エル・サロン・メヒコ
このタイトルの意味は「メキシコのダンスホール」。アメリカの作曲家コープランドは、そこで感じた異国情緒をこの曲の中に凝縮しました。めまぐるしく変わるリズムに乗って、様々なシーンが明るい色調で展開していきます。
ガーシュイン:パリのアメリカ人
ガーシュインもアメリカの有名な作曲家ですが、彼がこの曲を作った90年前もパリは憧れの地だったのでしょうか。都会の喧騒の中でドキドキしながら心弾むアメリカ人を描いたこの音楽、ジャズのテイストも加わり、楽しさに溢れています。
ドヴォルザーク:交響曲第9番
言わずと知れた名曲。2楽章冒頭のメロディーは「下校の音楽」でも有名ですね。アメリカの音楽院に校長として招かれたドヴォルザークがニューヨークで作制したことから、「新世界より」というタイトルが付いています。チェコ人の彼が、アメリカの民族音楽に触発されながらも、故郷のボヘミアを思う気持ちが色濃く表れています。
指揮 田久保 裕一(たくぼ ゆういち)
東京学芸大学音楽科卒業。指揮を伊藤栄一、遠藤雅古、秋山和慶の各氏に師事、またチェロ、室内楽を黒川正三氏に師事。
1980年~1992年まで12年間、千葉県習志野市にて小中学校の音楽教師を務める。1992年に退職しプロの指揮者に転向。
1992年~1993年、スイス・ルガノにおいて、リカルド・シューマッハー氏に、ウィーンにてウィーン国立音楽大学のカール・エスターライヒャー教授、湯浅勇治氏、およびザルツブルツ・モーツァルテウム音楽院のハンス・グラフ教授に師事。
1994年11月、ルーマニア・ブラショフ市で開催された「第4回ディヌ・ニクレスク」国際指揮者コンクールにてグランプリ、審査員特別賞と聴衆特別賞を受賞。その後国内外での活動を開始。
2002年8月、中国内蒙古自治区の呼和浩特にて内蒙古自治区歌舞劇院交響楽団を指揮。合同演奏会にて大成功を収める。多大な功績を讃えられ「名誉客員指揮者」の称号を受ける。その後も定期的に訪中し、同交響楽団や芸術大学、師範大学のオーケストラの指導を続けている。
2010年3月、ウィーン楽友協会大ホール「楽友協会ホール」にて、ベートーヴェン生誕240周年記念オーケストラ、合唱団を指揮し好評を収める。2011年9月11日にはニューヨークのリバティ大聖堂において、東日本大震災と9.11の追悼演奏会を開催。モーツァルトのレクイエムを指揮し、現地からの絶大な絶賛を受ける。また2013年12月5日のモーツァルトの命日に行われた生誕追悼演奏会で、ウィーンのシュテファン大聖堂にてモーツァルトのレクイエムを指揮し、満客の合唱、聴衆とともに没後222周年のモーツァルトに祈りを捧げた。
2016年11月にはウィーン楽友協会大ホールでジャパン・フェスティバルオーケストラを指揮、マーラーの「巨人」、近藤嘉昭氏とベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」を演奏し超満員の聴衆から喝采を浴びた。
1000人のバーバーコンサートでは、2010年(広島)、続き2015年(仙台)と指揮を務めた。その他か震災復興支援演奏会やチャリティー演奏会なども多数参加している。
これまでに、国内の主要オーケストラを指揮。また全国のアマチュアオーケストラや合唱団の育成にも協力。エネルギッシュで熱い人柄で、行く先々で音楽ファンを増やし、地域文化の活性化に貢献している。
近年は全国各地で指揮法講習も数多く開催し、ライフワークとなっている。ジャパンライム社から発売された合唱指導DVD「指導のABC」は大好評で刷数が続いている。7月に第二弾「田久保先生の合唱クリニック」が発売された。今後は吹奏楽(合唱)指揮法のDVDを発売する予定。日本指揮者協会理事。
ブログ:田久保裕一のミュージックプラザ ホームページ:http://www.musicinfo.com/takubo/
名古屋シンフォニア管弦楽団について
1982年に愛知県内のアマチュア音楽有志によって結成され、年2回の定期演奏会を続け、2017年に35周年の節目の年を迎えました。名古屋を拠点とするアマチュアオーケストラとしては老舗の部類に入り、2003年には愛知県芸術文化賞を受賞しました。現在では、結成当時のメンバーから新社会人に至るまで、年齢も職業も様々な80名以上が集う大所帯となりました。
定期演奏会では、隠れた名曲や難曲、大編成の曲にも積極的に挑戦する特色ある選曲を心がけ、練習では指揮者はじめ経験豊富なプロの先生からの熱心な指導の下、楽しくかつ真剣に音楽に取り組んでいます。私たちが演奏を楽しむだけでなく、お客様にも一緒に楽しんでいただけるような演奏会を目指して活動しています。
アーロン・コープランド:「エル・サロン・メヒコ」
1930年代初頭、メキシコシティのダンスホール「サロン・メヒコ」(*1)。
(遅いな‥・) 賑やかなマリアッチ(*2)を横目に、アーロンは時計を見た。
「俺なら5分前からここにいる。」
振り返ろうとしたアーロンの視線の隅に、壁を背にして立つ少年の姿が見えた。
「君が‥・君がゴルゴか?」
「そのままで話せ。パリに留学までした作曲家が、俺に何の用だ?」
「ここメキシコでは、1929年に国民革命党が政権を取ったが、反対勢力は転覆の機会を窺っている。」
女性歌手が、「ファゴっ」と鼾(いびき)をかいている客に一瞥をくれた後、恋の歌を歌い始めた‥・
「隣国の政情不安定は、アメリカ国内の不安を煽りかねない。ユダヤ系ロシア移民の家に生まれたお前は、それがマイノリティの迫害につながることを恐れているのだな。」
「ど、どうしてそれを・・・。」
速い曲想に変わり、やがて踊り子が崩れ落ちるようにダンスを終えた。ゆらめく紫煙の向こうで、男が女の耳元で何事か囁いている。バイオリンの甘いフレーズに、クラリネットが応える‥・
「ゴルゴ、メキシコの安定には、反対勢力の首領(ドン)を仕留めるしかない。奴は滅多に姿を見せないが、音楽が好きで、お忍びで私の新作を聴きに来るという情報がある。狙うならその時だ。」
楽士たちはテンポを上げ始めた・・・
「この店の様子を曲にできないか?シンコペーションやヘミオラやポリリズムも活用し(*3)、アクセントの位置もずらすのだ。打楽器も派手に使え。」
(こ、こいつ、音楽にも詳しいのか‥・)
少年は暗闇に消えていった。
マリアッチの演奏はいよいよ盛り上がる。テキーラに酔った客たちは、手拍子がズレてもお構いなしだ。3/4、4/4、6/8、3/8、2/4、8/8、5/8と、拍子が目まぐるしく入れ替わるように聞こえる‥・(これか!メキシコ民謡を採り入れて、このズレズレの熱気を表現すれば・・・そうか、変則的なリズムと音響でオーケストラも聴衆も幻惑し、犯行(しごと)をカムフラージュするつもりなのか‥・少し雑じゃないか、ゴルゴ?)
アーロン・コープランド(米国1900~90年)が「エル・サロン・メヒコ」(1937年初演)を書いた背景にこのようなことがあったことは、まったく知られていない。しかし、曲の最初と最後に使われるG majorのハーモニーは、ゴルゴ13のイニシャル(G)を暗示しているとされる。ところどころに出てくる打楽器の不協和な打撃も意味ありげだ。
稀代の狙撃手(スナイパー)ゴルゴ13は、1930年代後半以降の生まれとの説もあるが、生年不詳である。
(*1)実在のダンスホール。(*2)メキシコ音楽を演奏する小編成の楽団。(*3)変則的なリズムを表す音楽用語。詳しく知りたい人は音楽辞典で調べよう。
*編集部注:この曲紹介には一部フィクションがあります。
ジョージ・ガーシュウィン:「パリのアメリカ人」
ジョージ・ガーシュウイン(1898~1937)は、ニューヨークのブルックリンでユダヤ系ロシア移民の家庭に生まれました。決して裕福ではありませんでしたがピアノを習い、少年期からジャズやブルースに親しみ、弱冠20代でピアノ弾きとしてだけでなく、ピアノ曲やミュージカルナンバーなどを世に送り出す作曲家として活躍していました。
そんな彼が、休暇を取ってパリ見物にやって来た時のことを想い出しながら作曲したのが、この「パリのアメリカ人」です。実はこの曲が、ガーシュウインにとって初めての管弦楽曲だったというと驚かれるでしょうか。既に「ラプソディ・イン・ブルー」で有名になっていたガーシュウインですが、正規の音楽教育を受けていないため管弦楽法については経験がなく、「ラプソディ・イン・ブルー」の管弦楽曲への編曲は演奏者であるホワイトマン楽団の手によるものでした。
ピアノやポピュラーミュージックでは売れっ子となっていたガーシュウインですが、クラシック音楽への憧れが捨てきれず、とはいえ独学のオーケストレーション技術には不安もあり、何人かの作曲家に教えを請うたそうです。パリ見物の折には、「管弦楽の魔術師」と呼ばれたモーリス・ラヴェル(ムソルグスキー作曲のピアノ曲を見事に管弦楽曲に編曲した「展覧会の絵」は有名ですね!)に師事を願い出たところ、「一流のガーシュウインが二流のラヴェルになる必要はない」と断られたというエピソードまであります。結局、独学で作曲を続け、独力でフルオーケストラ用管弦楽曲「パリのアメリカ人」を書き上げました。
出来上がったこの曲は、ジャズとクラシックの融合というだけでなく、ラヴェルやドビュッシーの影響と思われるような20世紀フランス的な和声法(霞がかったような音の重ねと進行)も見られ、ガーシュウインの音楽へのこだわりと才能が十二分に発揮された作品となっています。
編成は、通常のオーケストラ編成に加えて、サクソフォーン(アルト、テナー、バリトン)やチェレスタ、打楽器が多数が加わります。特にタクシー・クラクションは、ニューヨークでの初演に向けて、ガーシュウインがわざわざパリから持ち帰ったそうです。ご注目ください!
曲の冒頭から、パリの大通りを好奇心いっぱいで歩く様子が軽快に描かれます(フランス風散歩の主題)。まさにおのぼりさんですね。おっと危ない!よそ見ばかりしていると、パリのタクシーは運転が荒いんですよ。ほらクラクションが!少しくらい危ない目にあっても賑やかなパリの街、ちょっと裏通りに入ったりして、ウキウキした気分は続きます。おや、憂いを帯びた優雅なパリジェンヌが・・・ソロヴァイオリンが奏でる甘い旋律にチェレスタが寄り添います。
中間部では、トランペットが哀愁を帯びたブルースを披露、こうなるともうホームシック‥・アメリカへの郷愁が募ります。その後、一転して陽気なチャールストン、この旋律が最高潮に達したところでブルースが戻り、最大の頂点となります。
その後、パリの賑やかな雑踏、散歩の主題がよみがえり、ブルースと絡み合いながら華やかにパリの見物が終わります。
1951年公開のミュージカル映画「巴里のアメリカ人」では、ガーシュウインのこの曲をバックに踊り続ける18分間のダンスシーンが有名です。ちなみに今年、劇団四季の最新ミュージカルとして、「パリのアメリカ人」が開幕します。東京公演に続き、9月からは名古屋四季劇場で上演されます。ガーシュウインの名曲で構成された舞台も見てみたいですね。
アメリカにやって来たドヴォルザークが故郷のヨーロッパ(ボヘミア)を想って作曲した「新世界より」と、パリにやって来たガーシュウインが洗練された都会と故郷アメリカとを融合させて作曲した「パリのアメリカ人」。どちらも、何かに憧れ希望を胸に異国に渡るも‥・故国への郷愁で胸がいっぱい。そんな本日のプログラムをどうぞお楽しみください。
アントニン・ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」
前半のプログラムで「コープランド、ガーシュウインと近代アメリカ音楽の形成に大きな役割を果たした作曲家の音楽を聴いていただきました。ここからは、チェコはボヘミア出身の作曲家、ドヴォルザークの交響曲をお聴きいただきます。
ドヴォルザークが、音楽学校の校長としてアメリカ・ニューヨークに招かれていた1893年にこの曲は作られました。タイトルにある「新世界」は間違いなくアメリカのことでしょう。でも「より」が付け加えられてるのにはどういう意味があるのでしょうか。
この曲、アメリカっぽく聴こえますか? 確かにフォスター作曲の「故郷の人々」や、黒人霊歌を連想すると言われる事が多いのですが、作曲者自身はアメリカでこの交響曲のためにいろいろなメロディーを取材した事は認めつつ、そのまま取り入れたことは否定しているようで、「私はただアメリカの国民的なメロディーの精神で書こうとしただけである」と弟子に宛てた手紙で記しています。そして「アメリカ、イギリス、あるいは他のいずれの地で創作しようとも、それは単純に『真のボヘミアの音楽』なのだ」と言い切っています。なるほど。アメリカで取材したメロディーを取り入れて作曲したのならタイトルは「新世界」でいいですよね。異国での生活にボヘミアへの郷愁を深めたドヴォルザークは、交響曲にその想いを込めて、新世界から故郷に贈ったのでしょうね。
ところで「初めて聴いた交響曲は新世界です」という方は非常に多いのではないでしょうか。実は私もその一人なのですが、初めて聴いたその時は「交響曲」という認識は全く無くて‥・。
それは小学校の卒業式でした。卒業証書授与のBGMとして流されたのが、この曲の第2楽章でした。キャンプで歌った「遠き山に日は落ちて」ってこんなに感動的に演奏できるんだ!と卒業証書を受け取る順番を待ちながら思ったものです。「遠き山をオーケストラで演奏したかっこいいやつ」が本当は交響曲で、こっちがオリジナルと知ったのはもう少しあとでしたが、これをきっかけの一つとして私のクラシック音楽人生が始まったのでもあります。とにかく日本でこれほど多くの人に親しまれている交響曲由来のメロディーはないでしょうね。
ではなぜこんなに親しまれているのか。それはもう校外学習における「遠き山」の功績に他ならないのですが、このメロディーの音階に仕掛けがあるとか。ご存知のように西洋音楽で使う音階はドレミファソラシの七つの音でできているのですが、この内4番目と7番目のファとシの音を抜いた通称「ヨナ抜き」と呼ばれる五音階=ドレミソラで、「遠き山」は作られているのです。
この音階を用いるとなんだか民俗的な落着きを感じるメロディーになります。この音階には半音がありません。理屈はいろいろ難しいのですが、メロディーの中の半音の動きは非常に高揚した感じになったり、終わり感になったり、なにかと印象的な表現になります。これに対し全音の動きは、ハデさはありませんが、その代わりとなる素朴な魅力を持っているように私は思います。
ヨナ抜き音階は卒業式の歌「蛍の光」にも使われています。この曲は元々スコットランド民謡のメロディーです。また、明治以降に作られた多くの童謡や、歌謡曲にも使われていますので是非探してみてください。きゃりーぱみゅぱみゅや、YMOも・・。
面白い使用例があります。太田裕美さんの歌う「木綿のハンカチーフ」です。都会に行ってしまった男性と田舎に残った女性のメッセージのやり取りが歌になっているのですが、男性のセリフの部分はヨナ抜き音階でできています。そして女性の部分は普通の七音階です。一瞬逆じゃないの?って思うのですが歌ってみると、都会に出て垢抜けていったつもりの男性の無邪気さがヨナ抜きで、都会の絵の具に染まっていく彼に対する女性の気持ちを、半音の動きでしっとりと表現されている事がわかります。(注:演奏会が終わってから歌って下さいね。)
もう少し余計なお話を。ドヴォルザークは大変な鉄道マニアだったということ。生家のすぐそばに鉄道が走っていたそうですが、この交響曲にも鉄道に影響を受けた部分があると言われています。
そう思って聴いてみると、第3楽章のリズムは線路の継目を乗り越える車輪の響きですし、第4楽章の冒頭はまさに動き始める蒸気機関車の動輪の様子です。童謡「汽車ぽっぽ」には「なんだ坂!こんな坂!」と機関車の走る姿を描写する歌詞がありますが、よく似たリズムも出てきます。また、たった一度しか使われないシンバルの音は、列車を連結するときの連結器の音!、だとか。
そういえば音楽関係者には鉄道マニアが多いのではと思えてきました。周囲を見渡すと、やはり・・・多いですね。フェイスブックには毎日誰かしらオーケストラのメンバーが、鉄道の写真を載せています。ドヴォルザークもニューヨークでも駅に相当通い詰めていたそうです。そんな「ニューヨークのボヘミア人」の作品です。演奏をお楽しみ下さい。
~ガーシュウィンとコープランド~ 高荻 泉
コープランドは後にこう回想している。「ガーシュウィンと私はいろいろな面で共有するものがあった。二人ともブルックリン出身で、同じころにルービン・ゴールドマークに作曲を習っていたし、二人ともピアニストで、アメリカ土着の音楽を取り入れた音楽を書いていた。だが、30年代のハリウッド時代が来るまで我々は別の仲間と付き合っていた」。イーアン・ウッドによればガーシュウインは「こちこちの伝統主義者」だったゴールドマークのレッスンに結局3回しか行かなかったらしいのだが、実はコープランドとガーシュウインは同じ世代にしては意外に接点が少ない。音楽辞典の編纂者であるニコラス・スロニムスキーはこう証言する。「ガーシュウインは劇場関係者でした。コープランドは違います。私は二人を紹介しました。あまり言葉は交わされませんでした」。パリでナディア・プーランジェに師事したコープランドが帰国したのは1924年の6月のこと。当時のアメリカでは数か月前に初演されたばかりのガーシュウインの『ラプソディ・イン・ブルー』が音楽界を席巻していた。コープランドがこれに影響を受けなかったわけはなく、ジューディス・ティツクによればコープランドもハーレムのジャズ・クラブに通い、「民族音楽としてのジャズ」という認識に至っている。コープランドは後に「ジャズの構造と影響」という論文を世に出すことになるのだが、ティツクはこの論文にアフリカ系アメリカ人音楽家が言及されず、またジャズにおける即興演奏の役割が軽視されていることなどから、コープランドは「ジャズ分析家として自らの限度を露呈した」と評している。ガーシュウインはその後、ダンスオーケストラやブロードウェイのショウに音楽を提供する一方で、ピアノ協奏曲ヘ長調(1925)、『パリのアメリカ人』(1928)を世に出し、歌劇『ポーギーとベス』の作曲を進めることになる。コープランドもジャズの手法を取り入れてピアノ協奏曲を作曲し、1927年に自身のピアノ、クーセヴィツキー指揮のボストン交響楽団で初演し成功を収めた。しかしショウ・ビジネスの世界に身を置いたガーシュウインと対照的に、コープランドは評論家ポール・ローゼンフェルドが主催するサロンで様々な芸術家と交流を深めていた。「コープランドとガーシュウインの相違は,仲間の一人としてシャツの袖をまくりあげ、舞台の上で演奏するピアノ弾きと、赤葡萄酒のグラスを傾けながら舞台の外で音楽の値踏みをしている人物との相違である」とティツクは述べている。
1920年代後半、コープランドはローゼンフェルドを介して、メキシコの作曲家カルロス・チャヴェスに出会い、メキシコやアステカの文化に傾倒するようになる。「チャヴェスが『エル・サロン・メヒコ』という風変わりな夜の盛り場に連れて行ってくれた。そのダンス・ホールの雰囲気が私の印象に残った。そこを出るころには楽想が芽生えていた」とメキシコを訪問した時のことをコープランドは語る。当時の評論家アニタ・プレナーのガイドブックでは「サロン・メヒコ――大衆向きのハーレム式ナイトクラブ。豪華なキューバ楽団あり」と紹介されているそうな。
ガーシュウインはやがてハリウッドで映画の仕事も手掛けるようになる。いずれも音楽映画である。1本挙げるとすれば1937年のマーク・サンドリッチ監督の『踊らん哉』が実にいい。音楽自体の美しさはもちろん、名コンビ、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの歌とダンスが絶品である。
コープランドもハリウッドで映画音楽の仕事をするようになるが、手掛けたのはスタインベック原作、ルイス・マイルストン監督の『廿日鼠と人間』(1939)であった。文芸大作だね。彼自身はガーシュウインのようにミュージカル映画を手掛けなかったが、1947年のMGMのミュージカル映画『闘牛の女王』(リチャード・ソープ監督)に楽曲を提供している。メキシコを舞台に、闘牛士なんだけど作曲家志望というややこしい主人公のマリオ(演じるはリカルド・モンタルパン――『スター・トレック』シリーズのカーンですね-)が酒場のピアノで『エル・サロン・メヒコ』を弾きまくるシーンがあった。
ガーシュウインの音楽を使った映画の決定版といえばやはり『巴里のアメリカ人』(1951年ヴィンセント・ミネリ監督)に言及しないわけにはいかないだろう。冒頭の“I Got Rhythm”(これもガーシュウインの名曲)からジーン・ケリーが歌って踊る。そして映画の終盤、『パリのアメリカ人』をほぼ全曲使用した群舞は圧巻である。

